楼桑村会戦

「自分で言うのもアレだけど、これで負けたら私は歴史に残る大馬鹿ね」

 高順は後軍の本陣にてそう告げ、周囲の笑いを誘った。
 彼女が率いる将は到底烏丸が敵うものではない。

 董卓、呂布、張遼、公孫瓚、魏延、黄忠、厳顔、張勲、李穎。
 軍師としては賈詡と陳宮と杜預。
 留守番として楼桑村には荀彧と夏侯楙を残してあった。

 彼女らに加えて、劉備もついてきているが、何かができるというわけではない。
 彼女にできることといえば精々がお茶汲みと草履直し程度だ。
 だが、それでも戦場に立つのは呼び込んだ責任を取るなどというおこがましいことではなく、高順陣営の一員としてこれから自分が飛び込む世界がどういうものか、目にしておきたい――というものであった。


「で、高順。どういう策なの?」

 賈詡は問いかけた。
 しかし、彼女や陳宮には既にある程度の予想がついていた。

「簡単よ。前軍と中軍が止めている間に仲穎、奉先でもって中軍と戦っている烏丸の側面を急襲、慌てた烏丸が後方へ反転した後に前軍と共に回り込んだ文遠、伯珪でもって押し込む……その為に若干布陣を変えたわ」
「敵は突騎だけど、うまくいくの?」

 賈詡の問いに当然と高順は頷く。

「突騎の弱点は意外とあるのよ。携行できる矢が少ないこと、通常の騎兵とは違い突破力があまりないこと、密集隊形でなければ損害を受けにくいこと、盾があれば矢を防げること……」

 高順はそこで言葉を切り、居並ぶ面々を見回した後、再び言葉を紡ぐ。

「一番気をつけるべきところは偽装退却よ。撤退したと思わせてのこのこ追いかけていけば射撃される。それを繰り返されるうちに戦死者は少ないのに士気が低下し、敗走する……そういうことが負ける原因。故に、連中を倒すにはこちらに引きつけている間に神速でもって後方へ回り込み、一気に粉砕する」

 それを聞き、李穎は高順に降伏した判断が間違っていなかったことを実感した。
 あのとき、確かに後方へ回り込まれ、斬りかかられる寸前であった。

「しかし、高順様。私には500もの騎兵をうまく扱うことができるかどうか……」

 公孫瓚がそう告げた。
 彼女はまだまだ自分が勉強不足であることを痛感しており、此度の大抜擢は些か荷が重かった。
 しかし高順としては是非とも公孫瓚を使いたかった。
 烏丸キラーとでも言うべき程の戦功を史実では挙げている。
 人格に関しては色々と問題があったが、少なくとも戦闘に関しては董卓や呂布にも勝るとも劣らない能力を秘めている筈であった。
 

「伯珪、私はあなたに多くを望まない」

 高順はまっすぐに公孫瓚の瞳を見据え、告げる。

「あなたの仕事はただ馬を早く走らせるだけでいい。少しでも早く後ろへ回り込む。それだけで十分よ。失敗してもいい。何事もやってみなければ失敗も成功もないのだから」

 高順の言葉に励まされたのか、公孫瓚は僅かに頷いた。
 しかしながら、杜預は不安顔であった。

「高順殿、烏丸騎兵の移動は恐ろしく速いです。ですので、うまくいくかどうか……」

 もし後方へ回り込むのが遅れたら、楼桑村まで一気に突破されることとなる。
 一応馬防柵やら何やらで村を囲っているが、そもそも兵隊がそこには申し訳程度……そそれこそ数十名程度しかいない。
 その不安に対し、高順は自信満々に告げる。

「うちの連中は烏丸よりも速いから問題がないわ」

 杜預がなおも口を開こうとした時、遠くで砂埃が舞い始めた。
 
 どうやら戦闘が始まったらしい――

「仲穎と伯珪は右から、奉先と文遠は左から行って頂戴」

 にっこりと微笑み頷く董卓、いつも通りのぼんやりとした表情で頷く呂布。
 そんな2人にいつも通りだなぁ、と高順が思った矢先――

「いよっしゃあああああ! 戦やぁあああ!」

 無茶苦茶士気が高いヤツがいた。
 ハッキリ言ってうるさい。

「……霞、ちょっとうるさくない?」

 高順はあえて真名で呼び、自制を求めるが、今の張遼はそんなこと気にしない。

「なんや! ようやくの戦やんけ! このまんまだとウチが歴史の狭間に埋もれてまうかとビクビクしとったんやで!? つまらん総司令官なんぞにしくさって!」

 うがーとまくし立ててくる張遼に高順は溜息を吐きつつもこれは使える、と判断した。

「霞、それじゃこれまでの鬱憤を晴らす為に存分に戦って頂戴。一兵も逃さないでね」
「任しとき! この張文遠、存分に見せつけたるっ!」

 今にも出陣してしまいそうだが、ある程度烏丸連中を前軍と中軍が引きつけなければならない。
 高順は張遼にもう少し待つように告げ、物見からの報告を待つことにした。










「味気ない戦だ」

 前軍の大将である関羽はそう呟いた。
 敵と直接刃を交える、ということは無くやってくる烏丸兵は遠くから矢を射かけてくるだけだ。
 一応烏丸兵も陣形を作り、隙間なく矢を射かけてくるのだが、それらは歩兵達が持つ大盾に防がれ、死傷者は極めて少ない。

 関羽はちらり、と傍らにいる郭嘉へ視線を向けた。
 その視線に気づいた彼女はただ一言告げる。

「まだです」

 曹操の下で烏丸との戦闘を経験していた郭嘉はもう少しすれば埒をあける為に烏丸が突っ込んでくることが分かっていた。
 突破力は通常の騎兵に劣るとはいえ、ないわけではない。
 また烏丸兵は突騎の他に通常の騎兵がいることも分かっており、その旨は関羽を通じて高順にも伝えてある。
 だが、布陣は孫策らが中軍から前軍に移動した程度。
 高順にはそれほどまでの策があるらしい。
 
 郭嘉は高順が臆病風に吹かれた為に最強の二枚看板である董卓と呂布を手元に置いたようには到底見えない。
 また新参の公孫瓚になぜ500もの騎兵を与えたのかも理解に苦しむところだ。
 聞けば部隊指揮の経験は皆無とのこと。
 そして、張遼。
 郭嘉はいまいち彼女を掴みかねていた。
 武力は中々のものであるが、常に酒を飲んでいるイメージしかなく、とてもではないが騎兵を率いることができるようには思えなかった。
 そんな彼女を軍事の頂点に据えているあたり、有能な人物であることは間違いないが、軍政が得意であることと戦場での指揮が得意であることは別物だ。

 一番考えられることは敵の背後へ騎兵でもって回り込むことだが、それは不可能に近い。
 烏丸騎兵は恐ろしい程に素早く移動してくる為だ。
 迅速な移動でもって急襲を得意とする夏侯淵すらも追いつけない程に。

「伝令! 敵軍から騎兵が突出! 突っ込んできます!」

 天幕へと駆け込んできた伝令に対し、郭嘉は思考を目の前の事へ振り向ける。
 幾通りもの烏丸の行動を予測し、その予測を次々と打ち消していく。

「奉孝殿、良いか?」

 関羽の問いに郭嘉は僅かに頷いた。
 その返答を見、関羽は待機している伝令全てに大声で告げた。

「敵軍をここで押し止めようとは考えるな! そんなことをすれば後ろの寿成殿に怒られる! そう伝えよ!」

 十分過ぎる命令であった。
 関羽に与えられた役割は敵軍の勢いを殺すこと。
 そうであるが故に陣形は変則的な鶴翼陣となっていた。
 本来ならば兵数が多い側が使う陣形であるが、あくまでこれは囮であった。

 郭嘉は烏丸は迂回などをせずに中央突破を図ろうとすることを読み、敢えてこの陣を関羽に進言したのだ。

 敵は前軍本陣を突破しようと躍起になり、陣中深く進攻してくるでしょう。
 ならば敢えて隙を作り、突破させることで敵に気の緩みを与え、後方に待ち構えている中軍に急襲させましょう、と。

 故に本来ならば両翼にも多く兵を配置するところを少数の兵しか配置しておらず、あくまで関羽のいる本陣前面に多くの兵を配置している。
 これにより、敵が本陣を攻めあぐねれば隙間から後方へ浸透していくのであった。

 

 烏丸は前軍が歩兵のみであり、なおかつ少数であることを察知した為か、鋒矢陣を幾つか敷き、恐ろしい勢いでもって中央突破を図ろうと迫ってくる。
 またその騎兵の背後からは突騎が衡軛陣でもって突撃を開始しており、これもまた厄介だ。
 1万以上の騎兵の突撃は壮大であるが、受ける側としては勘弁して欲しいところであった。
 だが、それでもなお関羽は不敵に笑う。
 彼女の元にはたった3000の歩兵しかいない。
 しかし、それだけで十分過ぎた。

 中央に配置されている兵達は練度が最も高い者達であり、孫策らや波才隊もここにいた。
 対する両翼は兵数の少なさを将で補うべく、趙雲と華雄が配置されている。
 特に少数部隊の指揮において定評がある華雄と曹操の下にいたときから華々しい活躍をしていた趙雲ならば心配はない。
 特に華雄などは敵が逃げると困るから、という理由で敢えて旗を掲げない程に。


「出ますか?」

 郭嘉は問いかけた。
 関羽は己の得物、青龍偃月刀へ目をやった。
 手入れを1日足りとて怠ってはいない刃が天幕の隙間から差し込む陽光を受け、きらりと光った。
 まるで自分を早く活躍させろ、と言っているかのようだ。

「何、敵は嫌でもやってくるだろう。ならば、ここで座っているとしよう。それが大将の務めというものだ」
「そうですか。では、私もここにいるとしましょう」

 そう告げ、郭嘉は関羽の横に座った。

「良いのか? 見たところ、武の心得は無さそうだが……」

 事前の取り決めでは郭嘉は指示を出した後、退避することとなっていた。
 兵数が少ない最前線にいさせるよりは、と高順からの指示であった。

「ええ、高順殿の配慮は嬉しいですが、私とて孟徳様と共に今のような勢力となる前は劣勢を戦ってきました。この程度、どうということはありません」

 お茶でも飲みますか、と問いかける郭嘉に関羽は笑う。
 そのときであった。
 怒号や刃を交える音が間近まで聞こえてきた。
 予想以上に敵の進攻が速い。

「来客のようですね」

 郭嘉は他人事のように言った。
 しかし、彼女の肌が汗ばんでいるのを関羽は見逃さなかった。

「案ずるな。高順様のことだ、あと1刻も経たんうちに終わる……それとあまり汗をかくなよ? あの方は好き者でな、特に汗をかいた者を好む」

 郭嘉が何か言いかけたそのときであった。
 関羽は偃月刀を手に取り、素早く天幕の外目掛けてその刃を突き立てた。

 ざく、という肉に食い込む独特の音。
 刃を引き抜けば天幕の中へと倒れこんでくる烏丸兵。

「馬で突っ込んでこなかっただけマシか……」

 関羽はそう言い、立ち上がった。

「ちょっと行ってくる」

 まるで散歩に行くかのような口調で関羽は偃月刀を肩に担ぎ、外へと出たのだった。







 前軍が壮絶な戦闘をしている最中、中軍である馬騰は今か今かと手ぐすね引いて待ち構えていた。
 彼女の下に与えられたのは騎兵3000。
 彼女以外には馬超と馬岱が率い、軍師として羊祜が就いている。

 敵軍の浸透に対し、馬騰は魚鱗陣を1000名ずつの3つ拵えた。
 前軍と中軍の距離はおよそ半里、2km程度だ。

「まだか?」

 馬上から馬騰は問いかけた。
 彼女も勿論突撃するのだ。
 その馬の鞍に差した翩翻とひるがえる馬旗は今か今かと突撃の合図を待っているかのようだ。

「まだです。敵はようやく先鋒が突破し始めた程度でしょう……釣りで大魚を得るには待つことが肝心です」

 そう返した羊祜は手に取るように烏丸の動きが読めていた。

 彼我の距離と大凡の速さを予測し、羊祜はじっと敵がやってくるだろう方角を見据える。
 砂埃が微かに見える程度であるが、その砂埃は徐々に大きく、そしてこちらへと近づいてきている。

 そのときであった。

「伝令! 敵騎兵、こちらへ進軍中! 陣形鋒矢、数5000以上! 更に後方に衡軛陣の敵騎兵を認む!」

 偵察に出ていた騎兵が汗だくになりながら戻ってきた。
 羊祜は視線を前方へ固定したまま僅かに頷いた。
 
 対する馬騰はもはや問うまい、とただ瞑目し、己の得物を握っていた。
 娘と同じ型の十文字槍が陽光を受け、煌いている。


 羊祜は急速に大きくなる砂埃、徐々に聞こえる蹄の音を聞きつつ、砂埃の高さが一定の段階にまで達した瞬間、発した。

「今です!」

 声を受け、馬騰は発した。

「鳴らせ!」

 命を受け、たちまちのうちに鳴り響く突撃喇叭。
 馬騰本陣のそれを受け、馬超や馬岱の陣でも鳴り響く。

 そして、動き出す3つの軍勢、翩翻とひるがえる馬旗と曹旗。
 徐々にそれらは加速していき、やがて濁流の如き勢いとなって前へ前へと進んでいく。
 
 数で相手より劣っているが、そんなもの彼らにとっては大した問題にはならない。
 曹操の騎兵はよく訓練されており、西涼騎兵に勝るとも劣らない練度を誇る。
 そして、彼らを率いるのは馬騰ら。

 西涼において最強の名を欲しいままにしていた馬家による騎兵突撃。
 相手が誰だか分からなかったことが烏丸にとっての不幸であった。


 




 中軍、突撃開始――

 その報を受けた高順はただちに命を発した。
 董卓、呂布、張遼そして公孫瓚はその命を受け、一斉に進撃を開始する。
 中軍と後軍との距離は半里、およそ2km程。
 馬を走らせればあっという間の距離だ。

 杜預はほとんど全ての騎兵を彼女ら4人が引き連れていったことに目を剥いた。
 本陣の守りは黄忠と厳顔の子飼いの兵隊と降伏した烏丸の騎兵500騎しかいない。
 もし万が一、敵がこちらへ来たら到底防ぎ切れない――

 しかしであった。

 顔面蒼白の杜預とは正反対に高順は呑気にお茶を啜っていた。
 黄忠は厳顔と娘である璃々の世話をしているし、賈詡も陳宮もこの機会に、と溜まった書類を処理している。
 李穎はいざというとき逃げ出す為の馬の準備を魏延と一緒にしていた。
 張勲は張勲で書類仕事をしており、お菓子が欲しいですねーとか何とか言っている。

「思い切りの良さと胆力は孟徳様以上だよぅ……」

 杜預は情けない声でそう呟いた。
 そんな彼女を見た高順は何だか保護欲を刺激された。
 ドジっ子ヘタレ将軍杜預――そんなキャッチフレーズが思い浮かぶ。
 見た目とは裏腹に破竹の勢いの由来となった程の名将なのだが、とてもではないがそうは見えなかった。
 色々な意味で攻められることに弱いのかもしれない。

「おいでおいで」

 高順が優しく手招きすれば杜預は一瞬迷ったが、おずおずと高順へと近寄っていく。
 やってきた杜預に高順は優しくその頭を撫でてやる。

 はうぅ、と顔を真っ赤にする杜預であったが、拒否はしなかった。
 それを見た高順は曹操がどうして杜預を手元においているのか、理由が分かった気がした。

 きっと自分の心の癒しの為においているんだろうなー

 そんなどうでもいいことを思いつつ。
 そのとき、高順は殺気を感じた。
 杜預を撫でる手を止め、周囲に視線をやるとそこには賈詡と陳宮が恐ろしい目でこちらを見ていた。

 自分達にはやらない癖に、杜預にやるとは何事か――

 賈詡はともかく、最近陳宮にはあんまり構っていなかった高順であった。


 のんびりとしている後軍本陣であったが、これは総大将は戦が始まってしまえば緊急の事態が起こらない限りは暇であることを如実に表していた。
 とはいえ、報告は次々に入っていた。
 情報伝達を重視する高順陣営には曹操陣営と比べてもなお多くの伝令・早馬が配置されており、彼らにより前線の状況が伝わってくる。

 しかし、それらは全て想定の範囲内であった。

 前軍を突破した烏丸は中軍と激突し、熾烈な騎馬戦を繰り広げている。
 烏丸は激突する直前に相手が誰だか分かったが、あの馬騰らと戦えるならばと士気を大いに高めていた。
 数の上で劣勢である馬騰らはよく動き、僅かな敵も後方への浸透を許さなかった。
 また、烏丸が馬騰らの首をあげようと躍起になったことも有利に働いた。
 烏丸は後軍に誰が陣取っているかを知らなかったのだ。

 もし、知っていれば彼らは馬騰よりも大物である高順の首をあげようと突破を重視したことだろう。
 そして、突破していれば高順の首をあげ、さらにその後方、楼桑村を潰すことも容易であった。

 だが、全ては遅かった。
 そう、遅かったのだ。











「後少しだ!」

 今回の楼桑村攻めの総指揮官である楼班はそう声を発した。
 長い金髪に碧眼の彼女は烏丸の大人の1人である丘力居の娘だった。

 武勇に優れた彼女はうろちょろしている涿郡の漢軍を殲滅せんと兵を率いてやってきていた。
 元々、彼女は連合軍に対する烏丸の数少ない予備兵力でもあったが、未だ連合軍が全面攻勢に出ていないこと、行軍速度が素早い為にもし攻勢に出てきてもすぐに戻れる為に今回の討伐に抜擢されていた。

 彼女の兵は1万2000にも及ぶ。
 浸透してきた漢軍を叩き潰すには多すぎるのではないか、と母や他の大人から言われたが、万全を期す為に、と押し切って出てきた。
 そして、それは前軍を突破し、中軍とぶつかる寸前に正解であると楼班は確信した。

 あの馬騰が出てきたのだ。
 楼班は戦上手の馬騰であるならば涿郡駐屯の部隊が手に負えないのも無理はない、と思うと同時に馬騰の首をあげることで自分の武威を示さんとした。

 そして、その時は目前まで迫っている。
 彼女が率いる4000の騎兵は馬騰の陣に食らいつき、その鏃でもって魚鱗を打ち砕こうとしている。
 残る2000ずつの騎兵らもそれぞれ馬超と馬岱の陣に食らいつき、今まさに打ち砕かんとしている。
 
 そして、馬騰らを逃さぬよう後方へ回り込む突騎兵4000余り。

「詰みだ……!」

 輝かしい栄光へ手を伸ばそうとした楼班はしかし、唐突に鳴り響いた旋律に動きを止めた。
 右翼から鳴り響いた、聞き慣れぬ音色。
 一瞬だが、止まる烏丸兵達。
 同時に、左翼からもその音色は鳴り響いた。

「何事か?」

 楼班が傍らにいる兵にそう問いかけた、そのときであった。

「て、敵襲! 右翼より深緑の董旗! 左翼より深紅の呂旗! 突っ込んできます!」

 転がるように兵が楼班の下へやってきた。
 しかしながら、彼女は冷静であった。

「狼狽えるな。敵は少数、兵力を少しばかりそちらへ向けるのだ。数の上で我々は圧倒的……故に勝利は揺るがない」

 所詮は追い詰められた馬騰の悪あがき。
 楼班はそう高を括った。

 確かに彼女の戦術眼は正しかった。
 だが、問題は率いている将であった。
 
「呂に董? どこの者だ? 猛将なのかどうかは知らんが、馬騰以上ということはないだろう」

 楼班の言葉は周囲の兵達に安心感を与えた。
 だが、半刻も経たぬうちに楼班は後悔することとなった。










 時間は少々遡る。

「わー、凄ーい」

 董卓は率いる2000の騎兵の先頭でそんな言葉を発した。
 彼女の眼前には両軍入り乱れ、騎兵が舞っている。
 血煙と砂埃が混じり合い、怒号と悲鳴が交差する。
 
 その狂乱の宴にこれから加わるのはとてもではないが、そこに相応しくない容姿を持つ董卓。
 しかしながら、その実態は呂布と並ぶ程の剛の者であった。

 董卓は偃月陣を敷き、その先頭で冷静に戦場を観察する。
 敵は馬騰達に夢中となっており、こちらには気づいてはいない。

 董卓は呂布と同じく方天画戟を得物としていた。
 武芸の師である張遼すらも、持ち上げて振るうには四苦八苦する程に重いこの武器を董卓は軽々と振り回す。

「行きます」

 短く告げ、傍らに付き従う数少ない高順の騎兵数名に目配せする。
 彼らは頷き、懐から喇叭を取り出し、それを高らかに吹き鳴らした。

 一糸乱れず鳴り響く突撃喇叭の旋律。
 董卓は赤兎の手綱を叩き、一気に走らせた。


 偃月陣――

 三日月形の陣形であり、大将を先頭に置き、敵戦列の分断を図るものだ。
 大将が先頭であることからもっとも士気を高める陣形であり、また今回のように大将自体がとんでもない武を誇る場合には絶大な効果を発揮する。

 故に反対側にいる呂布もまたこの陣形であった。


 





 董卓勢から鳴り響いた突撃喇叭は戦場全体に響き渡る。
 それを受け、呂布は即座に突撃、と短く呟いた。
 彼女の命を受け、董卓側と同じように高順の騎兵達が喇叭を吹き鳴らす。
 同時に呂布は突撃を開始していた。








 董卓も呂布も互いにただ前へ前へと進んでいた。
 当初こそ、混乱が見られた烏丸兵達は楼班の指示の下に立ち直り、よく戦った。
 彼女の指示通りにそれぞれの陣から兵力が抽出され、董卓も呂布もほぼ自軍と同数の騎兵とやりあうこととなった。

 しかし、相手が悪すぎた。

 まるで竹を太刀で切断するかの如く、圧倒的なまでの強さでもって2人の軍勢は敵軍を分断していく。
 何よりも大将である呂布が、董卓が、刃を振るえば唯の一回で数人の首が飛ぶ。
 剣で、槍で、矛で防ごうにも受けた瞬間に恐ろしい力でもって馬から叩き落されてしまう。

 そんなデタラメな存在にさしもの烏丸兵といえど、恐怖に慄き始めた。







「あそこが本陣っ!」

 董卓は最も騎兵が分厚く配置されているところ目掛けて斬りこんでいた。
 彼女の背後に続く騎兵はそれなりに数を減らしてはいるものの、しっかりとついてきている。

 本陣に行かせまい、と前方から突っ込んでくる騎兵数名に対し、董卓は無造作に方天画戟を振るう。
 見目麗しい乙女達であったが、彼女らの首が空高く舞う。

 彩ちゃんが見たらきっともったいないもったいないって言うんだろうなぁ、と董卓は思いつつ。

「悲しいけど、これも戦争なんです!」

 董卓は得物を振るい、更に屍を量産していく。




 対する呂布は元々の性格もあって無感動に、無表情にただただ敵を殺していく。
 それがかえって敵兵の恐怖を煽った。
 
 元々正義とか政治とか英雄とかそういったことにはてんで興味がない彼女。
 そんな彼女が高順の下にいるのはひとえに居心地が良かったからだ。
 別に高順の雰囲気や人柄が良いというわけではないが、戦以外ではセキトと遊んでて良い、食事もたんまりと出してくれる。
 そういう仕事環境は呂布にとって最高であった。

 そうこうしているうちに彼女の視界に董卓が映った。
 向こうも呂布に気づいたらしく、にっこり笑顔で片手を振ってきた。
 呂布も小さく手を振り、彼女と同じく本陣を目指した。









「何なんだこれは……」

 楼班は呆然と馬上で呟いた。
 信じられない光景であった。
 精鋭の烏丸騎兵が、あっという間に蹴散らされていく。

 悪い夢でも見ているかのようだ。


 深紅の呂旗を差した者と深緑の董旗を差した者。
 大将と思われるその者らの攻撃を止められず、ただの一撃で屠られる兵達。

 その者達が曹旗を持った騎兵を従え、一目散に本陣目掛けて突っ込んできていた。



 馬騰以上ということはない、と言っていた少し前の自分を楼班は殴りたくなった。



 馬騰の悪あがき? 違う、これは大将を討つ為の策……!

「退却!」

 分かるや否や、楼班は大声で叫んだ。
 失敗に拘る程に彼女は愚かではなかった。

 ここは潔く引き、態勢を整えよう……

 楼班の命に烏丸兵達は戦闘を切り上げ、次々に馬首を翻していく。
 逃げに転じた烏丸は攻勢のときよりも素早かった。
 元々、殿軍となる隊が決められていたのだろうか、たちまちのうちに本陣前に騎兵が集結する。

 董卓と呂布は直ちに追撃を命じるが、殿軍となった烏丸騎兵達が死に物狂いで立ち塞がり、更に突騎達は味方撃ち覚悟で馬上で体ごと振り返り、騎射を行う。

 降り注ぐ矢雨と死兵となった騎兵により、董卓らは追撃を中止せざるを得なかった。







 楼班は減った軍勢と共に来た道を戻る。
 前軍が待ち構えているだろうが、そこは予想の内であった。
 所詮は歩兵、騎兵の敵ではない。

 行きがけの駄賃ならぬ帰りの駄賃に潰しておくのも悪くはない。

 陣形は乱れに乱れているが、それでもなお歩兵程度なら潰せる。
 そう思う楼班であったが、彼女らを待ち受けていたものは――




「なん、だと……」

 前軍から目と鼻の先といった距離にまで近づいた楼班ら。
 ここまで来る間に大雑把な数を数えさせたが、およそ8000名程度にまで減っていたが、前軍を踏み潰すには十分過ぎる数であった。

 だが、そこにいたのは前軍だけではなかった。


 態勢を立て直した前軍の前に、弓なりの陣を敷いた2つの騎兵の群。
 それぞれ紺碧の張旗、白地に黒字で描かれた公孫旗。
 1つの群は500騎程度、合計しても1000程度の騎兵であったが、その一番先頭に陣取る、たった1人の者が際立っていた。

 漆黒の華旗を鞍に差し、戦斧を肩に担いでいる。
 血で染まったその銀髪に凄惨な笑みを浮かべている様はまさしく戦乙女。

 紛れもない、その者の名は――


「馬鹿な……華雄だと!? するとこれは……敵の総大将は……」

 馬騰ではなく、高順。
 最悪であった。

 兵達の間にも動揺が走った。
 間近に迫った勝利から一転の退却、そして突きつけられた事実。
 如何に精強といえど、士気はだだ下がりであった。


 相手の数は楼班らと比べると悲しい程に少ない。
 だが、それでもなお今の楼班らにとっては脅威であった。

 楼班はただちに迎撃を命じるが、兵の動きは鈍い。
 逃げようにも相手方は弓なりに、すなわち半包囲する形だ。
 後方に逃げようにも馬騰らがいる。
 今は殿軍が何とか押し留めているが、あの化け物2人を相手に回していつまで保つか分からない。

 また、たとえ目の前の敵騎兵を逃れたとしても、その背後には敵歩兵が長槍を構えて待っている。
 

 万策尽きた――

 楼班は敵方に対し、ゆっくりと歩み出た。
 

「我が名は楼班! 此度の戦の総大将である! 私の首はくれてやろう! だが、兵達は逃して欲しい! 今回のことは全て私の独断である!」

 楼班の言葉ににわかに敵陣が慌ただしい動きとなった。
 同時に彼女は自身を見つめる数多の兵達の視線を感じた。

 だが、楼班は決して振り返らず、ただ悠々と前へ進んでいく。


 敵陣はもはや目と鼻の先。
 一番先頭に立つ華雄と視線が合うが、互いに何も語らない。

 それから更に僅かな時が過ぎたとき、陣から1人の少女が馬に乗ってやってきた。
 彼女は白地に昇る朝日、旭日昇天旗を差している。

 華雄と同じ銀髪であることから、楼班は即座に高順であると判断した。

「私が総大将の高順である」

 静かに、だがハッキリと声は響いた。

「行け」

 楼班はその言葉の意味が理解できなかった。
 きょとんとした顔に高順は二度は言わない、と馬首を返した。

 慌てた楼班は再度問いかける。

「どういうことだ!? 情けをかけるというのか!?」

 その問いに高順は静かに答える。

「あのまま戦っていればそちらの全滅は間違いない。結果が分かっているが故にあなたは降伏した。私が勝った、あなたが負けた。その事実があれば生死は重要ではない」
「だが、私は再び牙を剥くぞ!」

 息巻く楼班に高順は口調を変えずに告げた。

「やってみると良い。だが、次はせめて10万の兵を揃えてくることだ。そうすれば今回のような負けはないだろう……勿論、10万程度で勝たせてやる程に私は甘くはないがな」

 楼班は悔しげに顔を俯かせた。
 彼女は思ってしまった。
 高順には、勝てない――と。

 一度でもそう思ってしまえば、それは先入観となって枷となる。

「ああ、それと」

 高順が更に続けた言葉に楼班は顔を上げた。

「横から殴りつけた連中は董卓、呂布。字は仲穎に奉先という。2人共、古の飛将軍に匹敵する者。よく、生きていられた。誇って良い」

 高順はもはや何も語らず、そのまま去ろうとした。
 だが、そのときであった。

「高順覚悟ッ!」

 烏丸の軍勢から1騎、突出してくる者がいた。
 その者は馬上にて弓を構え、高順目掛けて撃ち放った。

 その矢は狙い過たず、高順に飛来し――



 甲高い金属音が鳴り響いた。

「馬鹿な……」

 楼班は本日何度目になるか、信じられない光景を目の当たりにした。
 矢は地面に落ちてきていた。
 他ならぬ別の矢によって叩き落されて。

 楼班がハッとして視線を向けると、少しばかり先に薄紫髪の女性が弓を携えて佇んでいた。

「今の者、中々見所がある。罪に問うな」

 楼班は高順の言葉に目を何度も瞬かせ、その意味を理解した。
 しかし、彼女が何か言うよりも早く、高順は号令を掛けた。

「撤収!」

 その合図に兵達は動き始めた。
 もはや完全に烏丸から興味を失ったかのように、さっさと片付けを行なっていく。

「もし、お前やお前の配下達が私の女になりたい、というなら考えてやらんこともないぞ」

 唐突に聞こえたその言葉に楼班は高順をまじまじと見つめた。
 彼女は振り返り、不敵な笑みを浮かべ、さらに続けた。

「私は曹操と同じか、それ以上に好色だ。女を見つけたらとりあえず口説いておくのが礼儀というものだろう」

 冗談めかしてそう言う高順は馬を走らせ、その場を去っていった。










 数刻後、楼桑村へと戻った高順ら。
 その中で一番疲れた、と連呼していたのは前軍の者でも中軍の者でもなく、他ならぬ高順であった。
 高順は戦況が予想通りに推移していると聞き、そのまま昼寝をしようとしたが、賈詡に敵の戦意を挫く為に前に出ろ、と尻を蹴飛ばされ、馬を飛ばして前軍にまでやってきたのだ。
 勿論、自分だけ前に行くのは嫌なのでそこにいた全員を道連れとばかりに連れて。


 そして到着したら敵が降伏するとか言っている最中であり、高順は賈詡に捕虜にするのと逃がすのと皆殺し、どれが最も利益になるか、と協議した結果、見逃して名を広げるということとなった。
 無論、折角の烏丸討伐の好機を逃したことで不平不満がわんさか出たが、そろそろ苦しい懐から報奨を存分に与え、どうにか鎮火することに成功した。

 なお、高順の自分の女云々というのは完全に彼女の思いつきであり、楼班が予想以上に美人だったから、というのは言うまでもない。
 あの一撃についても、多分そういうことがあるんじゃないか、という賈詡の進言で黄忠が待機しており、見事に矢を防いだのだった。
 
 しかしである。
 討ち取った烏丸兵は2000名余り、残る2000名程度は大なり小なりの怪我を負っており、怪我をしていた烏丸兵達の中で最も位の高い者の懇願により、怪我が治るまでの期間限定でこちらで面倒を見ることになった。

 これまでとは捕虜の桁が一つ違う。
 ただでさえ、食料の消費が激しいというのに怪我人まで抱え込んでは賈詡としては堪らなかった。
 食料の消費や金銭の消費を抑える為に捕虜を取らなかったというのに、これでは本末転倒だ。

 見捨てればいいのでは、という声も多く上がったが、高順は頑として首を縦に振らなかった。
 こういったところで点数を稼いでおくのが好印象の秘訣と彼女は信じていた。
 この烏丸であっても怪我人を見捨てない、ということに対しては李穎や郭覧らの元烏丸の者達は感激し、荀彧からは広すぎる懐という褒めているのか皮肉なのか、いまいち判別がつかない言葉を頂いた。

 ただ、頂けるものはしっかりと高順は頂いていた。
 烏丸兵が捨てていった武具や持ち主のいない馬などだ。

 しかし、手持ちの兵力を考えれば楽観視していられない状況でもあった。


 高順陣営の兵力は離反により2700名程度にまで減少していた。
 それが今回の戦で更に減じ、700名近くが討ち死にし、500名が負傷してしまった。
 曹操軍の騎兵も死傷者が多数出、実働戦力は6000名程度にまで落ち込んでおり、孫策隊も50名近くが戦死していた。
 
 ある意味予想内の大損害に賈詡らは頭を抱えることになった。
 そして、それに加えて高順陣営から逃げ出す兵達が相次ぎ、実働戦力は1200名程度にまで落ち込んだ。

 吹けば飛ぶような戦力であったが、当の高順は1200人も自分についてくる人間がいることに大満足であった。
 これに郭覧らを加えれば1700名。
 中々に「大勢力」であった。

 高順の前向きな思考は良いことであるが、現実を見るとそうも言ってられない。
 今回の件で小癪な、とばかりに烏丸が本腰を上げて討伐に来たら拙い。
 楼班をはじめ、無傷の烏丸兵達をこれでもかと脅してみたが、どう転ぶか分からなかった。
 これまで以上に守備を固め、とりあえず負傷兵の回復を待つ……そういった現状維持の消極的案が選択されるだろう――




 戦後処理がある程度落ち着いた3日後、開かれる全陣営を集めた軍議では多くの者がそう思った。


 そう思っていたのだが、この人は元気だった。
 戦が終わったときは一番疲れたと連呼していたにも関わらず。




 軍議の大天幕に皆が集まり、劉備の淹れたお茶が全員に配られたところで口を開くヤツがいた。

「攻撃よ」

 一同、目が点であった。

「ちょっと彩、あんた現状を理解しているの?」

 思わず真名で問いかけてしまった賈詡を攻めることは誰にもできないだろう。

「理解しているからこそ、果敢なる攻撃が必要なの。敵は1万以上の兵力を敗走させられるとは思ってもみなかった筈。そして、戻った楼班らは涿郡に潜むのがそこらの雑魚ではなく、私であるということを喧伝するでしょう」

 高順は賈詡を見つめ、そして一同を見回した。
 ここまで異論は無いことを確認しつつ、高順は更に言葉を紡ぐ。

「故に、防備がより頑強となる前に、涿郡の中心である涿県の城を落とす」

 早口言葉みたいね、と笑う高順であったが、笑えなかった。

「良い案です」

 しかし、唯一人、賛同した者がいた。

「奉孝殿……!」

 賈詡が信じられないといった顔で賛同した者――郭嘉を見つめる。
 彼女はメガネを指で直しながら、告げる。

「凡百の輩はこの事態に至ってまず、守勢となりましょう。そして、それは敵方も同じ。楼班は保身の為に敵方に大損害を与えたと喧伝するしょう。そう、高順と戦い、兵を失いながらも生きて帰ったという称号を彼女は欲する筈です」

 故に、と郭嘉は告げる。

「今こそが好機と言えます。誰も彼もが攻勢には出てこれない、と思い込んでいるからこそ、容易く落とせます」

 ジッと郭嘉は賈詡を見つめる。
 その視線を受け、賈詡は思考を巡らせ――

「いいわ。どのみち、幾ら防御を固めようとも、こんなところでは大部隊の攻撃に何度も耐えられない。ただし、ボクや陳宮は立て直しで忙しい」
「構いませんよ。私と高順殿で落としましょう」

「え、私?」と驚く高順に隣の華雄が「いや、お前自分でやるから言ったんだろ」と小声でツッコミを入れる。
 そんなやり取りをしている高順に郭嘉は問いかける。

「高順殿、どの程度の兵を?」
「おそらく私とあなたが考えていることは同じ。兵数は500、それと馬車数十台よ」
「私は300程度でもいけると確信します」
「じゃ、それでいきましょう」

 理由も聞かず、採用する高順に郭嘉は目を剥いた。
 郭嘉はすぐさま、よそ者である自分の言を受け入れることに対して忠告しようと口を開きかけたが、高順が先に告げた。

「私は孟徳殿や文台殿を信じている。あの方々はこのような場で味方である私を謀殺するような卑劣な真似はしない」

 郭嘉ら、孫策らはそれぞれの身内で顔を見合わせた。
 そして、裏に潜む意図に苦笑せざるを得なかった。

 味方である高順――敵になったら仕掛けてくるんだろう?
 そういうことを見透かした上での発言であった。

「孟徳様の名を出されてはそうするわけにもいきませんね」

 郭嘉は朗らかに笑った。
 羊祜と杜預は信じられないものを見た、といった表情だった。
 常に真面目で笑みの一つも見せない郭嘉。
 彼女がこのように笑うのは曹操の前でのみだったからだ。

「ところで私は欲求不満の将を知っているのだけど、彼女を加えても?」
「奇遇ですね、私も存じております」

 そう言う2人にその当人が声をあげた。

「ウチのことやな!? せやな!? せやろ!」

 そう、張遼であった。
 あのまま包囲が閉じ、攻撃が開始されていれば彼女の欲求不満も解消されたことだろうが、そうはならず。

「他に行きたい人ー?」

 散歩にでも行くかのような口調で高順が問いかければ手がポツポツと挙がる。
 高順は策にどうしても必要な趙雲と華雄が手を挙げてくれたことに安堵しながら、2人を指名する。

 そんな中、周瑜は傍にいる人物が手を挙げていることに驚愕した。

「雪蓮!? 何であなたまで挙げてるのよ!?」
「だって戦でしょ?」
「あなたはもう……! もっと孫家の後継者として……」
「だって、私達、こっち来てから全く手柄立ててないじゃないのよー」

 孫策の尤もな言葉に周瑜は押し黙る。
 周瑜としても活躍できるよう、場を整えようとはしているのだが、どうにも曹操陣営と高順陣営が濃すぎて霞んでしまう。
 大兵力を揃えてきた曹軍、人数こそ少ないが一騎当千の強者揃い、実戦経験も豊富な高軍。

 ここらで目立っておくのも良いか――?

 そう考えつつ、孫権に周瑜は目を向けた。
 孫策隊の50人近い戦死者、その倍はいる負傷者。
 特に精鋭を揃えてきたが故に、孫権とも近い存在であった兵達。
 彼らを失ったことに気落ちしているようだった。

 しかし、これが戦争であった。
 周瑜は軍議の後に蓮華様に色々と言っておかねば、と思いつつ、口を開いた。

「ウチからはそこの馬鹿……もとい、伯符しか出せない」

 構わない、と高順は頷きつつ、後の面々はどうしようか、と郭嘉に視線で問いかけた。
 すると彼女は心得た、と軽く頷く。

「余り大勢で押しかけても先方に迷惑でしょう。楼桑村の守備もありますし、この程度で良いかと」


 軍議が終わった後、さーてメシだー、と伸びをしている高順に郭嘉が声を掛けた。
 彼女は真剣な顔で少し良いですか、と。
 高順は何事か、と思いつつ、郭嘉について天幕を出た。





 郭嘉に案内されたのは彼女に用意された天幕であった。

「芸術的な戦争……でしたか」

 そう呟くような郭嘉の言葉に高順は頷いた。

「震えがきました」

 郭嘉は戦後、すぐに羊祜や杜預を集め、盤上にて動きを再現した。
 高順がやったことは単純だが、それを為すには卓越した練度と烏丸をも上回る速度、そして寡兵であってもなお怯まぬ猛将・名将が必要であった。
 そして、率いる兵の大部分が自らの兵でないにも関わらず、高順の将は勇戦奮闘し、その武を示してみせた。
 何よりも、一歩間違えればこちらが全滅していることが容易に予期できる策を実行に移した高順の度胸。


 戦い方は幾らでもあったかもしれない。
 あるいはもっと被害を抑えるやり方もあったかもしれない。
 

 だが、それでも曹操とはまた違うものが、確かに高順にはあった。

「このような、完全包囲……烏丸が降伏していなければあちらの壊滅で終わったでしょう」

 郭嘉は声が震えていた。
 その声は興奮と畏れが入り混じったものであった。

「教書通りでしょう。ですが、それを戦場で完璧にやってみせる軍を私はあなた方をおいて他に知りません」

 べた褒めであった。あの郭嘉が。
 高順は気を良くする……というよりか、逆に恐縮してしまった。

 カンネーの戦いをうまく再現できればなー、と高順としては思ったものの、今回の戦、そこまでうまくいったとは思えない。
 やはりというか兵力の問題であった。
 あと3000、いや1000もいればもっと被害を抑えられた自信が高順にはあった。
 また包囲自体も完全包囲は上策とは言えない。
 下手をすれば敵を死兵とする可能性もあったわけで。

「私は稟と申します」

 郭嘉の言葉に高順は驚き、問いかけた。

「良いの?」

 頷く郭嘉に高順は興奮から鳥肌が立った。
 だがしかし、彼女は努めて冷静に告げる。

「私の真名は彩……あなたを引き抜きたいところだけど、きっと無理でしょうね」
「ええ、残念ですが」
「ここで殺そうにも、さっきあんなことを言った手前、恥ずかしい」

 高順の言葉に郭嘉は笑いながら肯定する。
 ならば、と高順は真摯な表情となり、静かに告げる。

「烏丸を倒すその日まで、私の軍師となって欲しい。最高の将と最高の兵による、1000年先まで語り継がれる最高の戦いを諸侯に見せてやろう」

 差し出された高順の利き手を郭嘉はしっかりと握った。

「文和殿や公台殿が怒りますよ?」
「あの2人はどちらかといえば政略が優れているのよ。まあ、ご機嫌取りはそれなりに得意だから問題ないわ」

 指揮系統はそもそも曹操陣営は高順の下にあった為、特に何かが変わったというものではない。
 だが、高順はこれで多くの助言を郭嘉に請うことができる。
 そして、それは郭嘉が自由自在に高順の武官を扱えることを意味していたのだった。

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