幕開け

「陣を構えて堂々と……そういう風に考えていたのかしらね」

 高順はやれやれと溜息を吐いた。

 その原因は劉璋軍にあった。

 劉璋が直接指揮を取っているとしても、行軍自体はマトモに行えていた。

 列がそこまで乱れることもない様子に高順をはじめとした多くの他陣営の者達は感心したものだが、それはさておき、そこからが悪かった。

 烏丸の突騎が少数で五月雨式に襲撃を仕掛けてきたのだ。

 それも本格的な交戦ではなく、遠くから矢を射掛けるというだけのもの。

 こちらが、というよりか怒った劉璋が追撃の為に騎兵――劉璋軍の騎兵は3000名程度――を繰り出せばさっさと逃げる、ということを繰り返していた。

 劉璋は戦わない烏丸に怒って腰巾着達に怒鳴り散らしていると言う。

 これまではなかった威力偵察という行為を間近で見た高順らは烏丸の連中がこれまで以上に一筋縄ではいかないことを肝に免じていた。

「とか言いつつも、陣は構えたじゃないか?」

 横から華雄がそう言ってきた。

 彼女の言う通りについ先程、劉璋軍からの伝令でここに陣を張るよう指示があったのだ。

 ついでに高順は劉璋に呼ばれているとのことも。

「ここで迎え撃つのかしらね……?」

 高順はそう言い、周囲を見渡す。

 だだっ広い平原。

 ところどころにある木々。

 華雄は肩を竦めてみせる。

「死ぬ連中が可哀想だ」

「今更言っても意味の無いことよ……分かってるわね?」

 確認に華雄はああ、と頷いた。

「いつでも後退できるよう、準備を整えておく。元譲にも当初の予定通りに行動するように言っておこう」

 華雄の言葉に高順は頷きつつ、一抹の寂しさを感じる。

 いつもいる筈の賈詡がいないが故に。

「賈詡のことだ、何かやっているのだろう……伯珪もいないしな」

 公孫瓚もまたここにはいない。

 それ故に賈詡が公孫瓚と共に何かをやろうとしている、と見た方が確実であった。

「そうね……でも、やっぱり彼女がいないのは寂しい……」

 そう言う高順に華雄は盛大に溜息を吐き、言った。

「惚気は結構だ。あと私がいることも忘れるな」

「分かっているわ。何はともあれ、全ては目の前の戦が終わってからね」

 高順と華雄の2人が話している間にも、準備は着々と進められていく。

 後退することは決定事項とはいえ、さすがに柵などを作らないのは不自然に過ぎる。

 故にそれなりに陣地のようなものを構築する必要があった。

「いやあ、どうなるか見物やなぁ。敵は大軍、こっちは少数でおまけにお荷物付き、こんな戦は初めてや」

 張遼が酒瓶片手に現れた。

 彼女の横には董卓がおり、高順に微笑みかけてくる。

「ちょうどいいところにきたわ。文遠、もし烏丸が私の裏をかこうと企んでいるなら……連中は兵力に物を言わせて、こちらにもちょっかいかけてくるわ」

 高順の言葉に一瞬で一同は顔つきが変わった。

「……なるほどな。あり得る話だ」

「もしかしたら、劉璋軍には1万が向かい、残り9万が全部こちらに向かってくることもありえますね」

 華雄に続き、董卓がそう言った。

 董卓の言が現実となるのは非常に可能性が高い。

「ええな、それ」

 しかしであった。

 張遼はその先を読んだ。

 それ故に彼女は高順の言わんとすることが分かった。

 華雄や董卓も張遼に続いて先を読んだらしく、笑みを浮かべている。

「ご明察……敵が来ることが分かっているのならば、攻撃に合わせて痛打を与えることもできる」

 高順が大好きな後手からの一撃であった。

「ここで私が思うに駄目なことは両翼に均等に戦力を配置すること。それでは数の暴力に敗れ去る……故に」

 高順の言葉を華雄が引き継いだ。

「片翼にウチの全戦力3000余名を集中し、敵軍の翼を一つへし折り、悠々と後退する……これだな?」

「そういうこと。もう少し兵力があれば返す刀でもう片翼もへし折りたいところだけど、それは高望みよ」

「ですけど、それだと劉璋軍が包囲されてしまいますが……」

 董卓の言葉に高順はあっけらかんと答える。

「包囲される前に潰走するから大丈夫よ」

 それもそうだ、と董卓は頷いた。

 とてもではないが、劉璋軍が烏丸とぶつかってマトモに戦えるようには思えなかった。

「せやけど、ほんまによかったんか? 黄忠と厳顔、置いてきて……」

 張遼の言わんとしていることは高順によく理解できた。

 子持ちだからと戦に出ない武将などまずいない。

 また種を仕込んだといえど、武将が戦に出ないというのはまず聞かない話であった。

「いいのよ。他とは違った職場環境を目指しているの」

「そーゆーもんか?」

「そーゆーもんよ。それじゃ、私は劉璋のとこに行ってくるから」

 ひらひらと手を振り、高順はその場を後にしたのだった。

「うははは、どうじゃ! 我が兵は!」

 高順が劉璋のいる大天幕へ入るとすぐに彼女は自慢気にそんなことを言ってきた。

 とはいうものの、高順としては精々囮としてそれなりに役に立ってくれればいい、と思っている。

 故に適当に劉璋へお世辞を言って彼女の気を良くしたところで肝心の提案をしてみた。

 法孝直と張子喬、この2人を自分達の督戦官として派遣して欲しい、と。

 督戦とはいわゆる、味方の兵士が勝手に逃亡しないよう、後方から監視することである。

 劉璋とて刺史。

 それなりどころかかなり良い教育を受けていたが為にその意味は容易に理解できた。

「ほう……中々良い心掛けじゃ! 早速送り込んでやるのじゃ」

「どうか一つ、よろしくお願いします」

 高順は頭を下げる。

 下げたくもない頭を下げるのはどの時代でも同じであった。

「では私はこれで……」

「待つのじゃ。特別に妾の傍で烏丸を蹴散らすところを見せてやろうぞ!」

 ですよねー、と高順はがっくりと肩を落とした。

 まあ、と彼女は思い直す。

 いざとなったら烏丸兵に紛れて逃げれば良いのである。

 肌の色から漢族ではないことが容易にわかるが故に。

 そんなことを高順が思っているとは露知らず、劉璋は自信満々に告げた。

「敵が現れたら全軍突撃じゃ! 我が兵の武勇を天下に示すのじゃ!」

 こりゃ駄目だ、と高順は人知れず溜息を吐くのであった。

 そして伝令が拙い知らせを持って駆け込んできた。

「敵が現れました! 大軍です!」

 しかし、劉璋は怯むことなく毅然と……というよりか、怖いもの知らずな風に告げる。

「ただちに全軍突撃じゃ!」

 王累止めろよ、と高順は心の中で願ったものの、当の王累は前線にて指揮を取っており、この場にいるのは劉璋と腰巾着の文官達だけであった。

 と、そのとき高順は気がついた。

 腰巾着達が1人また1人とこそこそと天幕の切れ目から逃げ出していることに。

 ああ、つまり、と高順は何だか劉璋が可哀想になった。

 要するに利益が出るから従っていたということが浮き彫りになったのだ。

 劉璋は自信満々に前しか見ていないので逃げていることに気が付かない。

 高順は言う義務も義理もないので文官達が逃げるのを見なかったことにした。

「おろ? 何だか人がおらんのじゃが……」

「さっき食あたりで腹痛だとかで皆、出て行きましたが」

 一々言うのも面倒くさいので適当に答える高順。

 今、この場には劉璋と高順を除けば警護の兵が数名しかいない。

 劉璋はなるほど、と頷き、深刻そうな顔で身を案じている様子であった。

 それを見て高順は思った。

 もしかして、劉璋が無能なのは人の言うことを素直に鵜呑みにしてしまうからなのではないか、と。

「李玉様、少々お聞きしますが、民に対してどのように振る舞っておりますか?」

「貧しい者がいれば仕事を与え、病める者がいれば薬師を向かわす、民の笑顔こそ宝なのじゃ」

 うむ、と鷹揚に頷く劉璋。

 高順は更に探りを入れる。

「ところでどうして孟徳にあのようなことを?」

「宦官は卑しい存在じゃと常々、言われていたのじゃ。それにあの者の風評も良くはない……許子将によれば治世の能臣、乱世の奸雄。じゃが、一目見て分かる。誰もあの者を従えることはできぬ」

 誰も従えることができないならば、前者の治世の能臣はあってないようなもの。

 故に、乱世の奸雄。

 皇族の末席の劉璋にとって、それが面白い筈がない。

 高順は思う。

 劉璋は無能ではなく、ただ凡人であるだけではないか、と。

 そう、人の言うことを疑わずあっさりと信じてしまうが故に無能に見えるのではないか――?

 そう考えるとすんなりと腑に落ちるところがある。

 劉璋が真に人心を得ていないのならば、兵が逃げ出した、という報告が矢継ぎ早に来る筈であったが、今のところそのような報告はない。

 また、未だに接敵していないのか、怒号や悲鳴なども聞こえない。

 劉璋からは突撃命令が出ているにも関わらず。

 王累が頑張っているだろうことは想像がついたが、それでも劉璋は何も癇癪を起こしてはいない。

 それはすなわち、王累の行動を認めているということになる。

 500倍の敵に勝てるとかそういうあたりも腰巾着連中が適当に煽てたのだろうことは想像に難くない。

 色々と考えている高順に対し、劉璋は更に言葉を続けた。

「もし、あの者を従える可能性があるとすれば……そなたをおいて他にはおらんじゃろうな。そなたからは孟徳と同じものを感じる。あの者より表には出ていないが……」

 高順は劉璋のその洞察力に脱帽した。

 彼女はただの無能でも、ただの凡人でもなかった。

 紛れもなく、乱世を生きる諸侯の1人であったのだ。

「王累は何年か前に益州に流れてきた者でな。やせ細ってガリガリであったところを妾が拾ったのじゃ。そしたら、よく分からぬのじゃが、妾の手助けをしてくれるようになってのぅ」

 民を助けるのは当たり前なのじゃが、と劉璋は首を傾げる。

 そんな彼女に対し、高順は平伏し告げた。

「李玉様、兵を引きましょう」

「……ほえ?」

「あなた様を慕っている兵をむざむざ犬死させる必要はどこにもございません。私に必勝の策があります」

 そう言い、高順はつらつらとこのままでは敗北することと自らが考えた策を述べた。

 将来の敵を増やすことになるとは分かっていてもなお、彼女は言わずにはいられなかった。

 彼女は元々劉璋軍を囮にする予定であった、というところまで告げた上で口を閉じた。

「……妾を囮に烏丸を潰す、とそういうことかや?」

 問いかけに高順は僅かに頷いた。

 劉璋の声色は至って平静であった。

「ならば妾が引くわけにはいかぬ。たとえ傍系といえど、妾は皇族に名を連ねる者。その妾が逃げ出したとなれば先祖や陛下に顔向けできぬじゃろう」

「逃げるのではなく、戦術的な後退であります」

 すかさず高順は訂正するよう告げた。

「元々妾を囮にする予定であったのじゃろう? 今更それを変更するのはいたずらに混乱を生むだけではないか?」

 高順は否定できなかった。

 もはや劉璋軍は烏丸の目の前に布陣している。

 兵の移動手段の大半が徒歩の劉璋軍では烏丸から逃げ切れない。

 乱戦状態のまま後退する高順軍と合流されてしまうのは策の瓦解を招きかねなかった。

 黙して語らない高順に対し、劉璋はうーん、と悩むが、やがてポンと手を叩いた。

「兵はおらなくても良いじゃろう? 妾だけ残ろう」

 高順は劉璋をマジマジと見つめてしまった。

 そんな彼女に劉璋は花の咲くような笑みを浮かべた。

「連れていけるだけ連れて行ってたも」

「しかし、それではあなたが……」

 劉璋の表情は変わらず、笑みを浮かべながら言った。

「妾は無能で、臆病な刺史であった。家柄はあったが、人を見る目はなかった。そなたが北平を訪れたときは怖くて布団を被って震えていた」

 でも、と彼女は続ける。

「妾の仕事は烏丸と戦うこと。今まで与えられた仕事は……それだけは最後までしてきたのじゃ。ならばこそ……ここから動くわけにはいかぬ」

 瞳に涙を浮かべながらも、それでも笑っている劉璋に高順は何も言えなくなってしまった。

「そ、そなたは早く自陣に戻り、策の準備をするのじゃ。う、烏丸に勝つこと、それがそなたの仕事じゃろう」

 体を震わせ、涙声でそう告げる劉璋に対し、高順は凛とした表情でもって彼女をまっすぐに見据えた。

「武運長久をお祈りします。また、会いましょう」

「う、うむ。機会があればいずれまた……」

 高順は踵を返す。

 天幕を出たところで天幕へと入る王累とすれ違う。

 その際、高順は聞いた。

 李玉様を頼みます――

 故に高順はすぐに答えた。

 元よりそのつもり――

 高順は劉璋を死なせるのは勿体ない、そう感じた。

 彼女はああいう必ず死ぬと分かっていてもなお、果敢に立ち向かう人物に好感を抱かずにはいられなかった。

 たとえ、それまでが全てよろしくない振る舞いであったとしても。

 高順は劉璋より兵を連れていけるだけ連れていくよう言われたが、兵に声を掛けることはしなかった。

 何故ならば行き交う兵達の全てが死を覚悟した壮烈な気配を漂わせていたからだ。

 これだけ慕われている劉璋が、暗愚であるとは到底高順には思えなかった。

 駄目なところもあるけれど、それも愛嬌……そういう風に思われている証拠であった。

 自陣へと戻った高順は主だった将を集めた。

「私が思うに、何もわざわざ敵が多いところを通って行く必要はないと思うの」

 高順の言葉に一同は首を傾げた。

 多いも何も、こちらよりも相手の方が圧倒的に数が多いのだからどこでも数の上では不利になるように思えた。

「こちらへ来るのはおそらく最大で9万少々、それが2方向へ分散するとして片翼は4万5千……」

「道理だな」

 うむ、と華雄が頷く。

「で、敵の兵力が最も少ないところはどこかしら?」

 その高順の言葉で呂布を除いた一同はハッとし、すぐに各々獰猛な笑みを浮かべた。

「敵のど真ん中を突破するんか!」

 そりゃおもろいと張遼を大乗り気。

「敵中大突破……腕がなるな」

「ああ、全くだ。主は武人の気持ちを良く分かっているようで」

 関羽の言葉に趙雲もまた頷く。

「彩ちゃん、もう歩兵の皆さんは後方へ送ってもいいんじゃないかな? 身軽な騎兵の方がいいよ?」

 董卓の提案に高順は頷く。

「その件については劉璋に許可を取り付けたわ。子林」

「え、あ、はい!」

 まさか呼ばれるとは思っていなかった子林こと夏侯楙。

 他の面々も「え、いたの?」とそういう視線を彼女へと向ける。

 そんな視線に縮こまりながらも、夏侯楙は高順の傍へと寄る。

「何でしょうか?」

「あなた、歩兵の指揮を取りなさい。大丈夫、簡単だから」

 どうやら高順は夏侯楙をただ書類整理係としておくつもりはなかったらしく、何やら策を授けていたようだ。

 とはいえ、夏侯楙に刻一刻と変化する戦況に対応できるだけの能力があるかというと無い。

 全く、これっぽっちも無い。

 そして、それは高順陣営の全員が知っていること。

「お前、本気か?」

 華雄がマジマジと高順を見つめて問いかけた。

「そうするに足るものがあるのか?」

 続いて馬騰が問いかけた。

 対する高順は自信満々に頷く。

「我々は敵中を突破し、大きく弧を描くように後方へ逃げる。無論、本来いるべき場にいないことを悟ったこちらを9万の軍勢は追撃に移る」

 高順は地面に自軍と敵軍の動きを描き始めた。

 説明したところまで描いたところで彼女は更に言葉を続けた。

「ここで敵はその兵力の多さが弱みになる。連中はあまりに兵が多すぎるが故に小回りがきかない……それだけ距離を稼げることになるわ。そこで我々は当初の予定通りに進行するが、ここで子林率いる歩兵はここに布陣する」

 高順が指したのは夏侯惇らが左右に布陣している場所の外側。

「ここに隊を左右5隊に分け、計10隊を配置する。で、元譲らが攻撃開始したら進撃開始」

 誰かが息を飲む音が聞こえた。

「……恐ろしい」

 呟いた声は李穎のものであった。

 一同の視線が集中するが、彼女は自らが思ったままに言葉を紡ぐ。

「敵は左右と前方から挟撃を受け、後方へ逃げるしかなくなります。ですが、これは後方へ抜けて安心したところに更に伏兵が襲いかかる……」

「だが、こちらの歩兵はたった1200だぞ? それを10隊に分けるとすれば1隊120。そのような少数ではあっという間に突破されるのではないか?」

 馬騰のもっともな問いであるが、それは李穎が否定した。

「いえ、この場合、兵力の多寡は問題ではありません。問題なのは唯一の逃げ道すらも塞がれたという状況です」

「死兵になる可能性は?」

 馬騰の更なる問いに李穎は首を横に振る。

「より外側に配置したということはそれだけ会敵に時間が掛かります。すなわち、後方へ抜けたから一安心だ、と相手にそう思わせてやる時間があります。そして、そうなってしまえば気が緩みます。そこを襲えば動転し、マトモな判断ができない可能性は高いかと……」

 ほう、と馬騰をはじめとした多くの者は感心した顔だ。

「お前が敵方にいなくてよかったよ」

 うんうん、と馬超は頷く。

 対する蹋達は信じられないものを見た表情だった。

「……お前、本当にあの李穎か? お前の上司からは落ちこぼれとしか聞いていないのだが」

「手柄を横取り、それだけで理解していただけるかと」

 なるほど、と蹋達は頷く。

 基本的に腕っ節が弱い輩は何されても文句を言えないのが烏丸であった。

「もう一回確認するけど、夏侯楙以外の全員は馬に乗って中央突破、夏侯楙はただちに歩兵を率いて夏侯惇に事情を説明した後に布陣。急いで」

 高順の言葉で彼女らはただちに準備に取り掛かったのだった。

 そして、その頃――

 烏丸に動きがあった。

 彼らは前方に現れた劉璋軍に対し、全兵力でもって一気に粉砕すべく、突撃を開始したのであった。

 そう、高順の読みは外れた。

 それを彼女が知るのも時間の問題であった。

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