高順の退き口

 高順は迷っていた。

 このまま進むか、それとも退くか――?

 つい先程、伝令兼督戦官として派遣されてきた法正に張松。
 彼女らは100人程の子飼いの兵隊を連れてきていたが、元々2人に督戦する気は毛頭なく――劉璋軍の内情を知っているだけに早いうちに崩壊することが理解できた為――このままなし崩し的に高順陣営についてしまおう、というものであった。

 前々から黄忠や厳顔から書簡をもらっていたこともあり、未練というものは然程ない。
 暗愚ではないが、それでも腰巾着の言う通りにしか動かない劉璋よりは余程自由に働ける、それは法正らにとって非常に魅力的であった。

 そして、その2人が持ってきた情報というのが烏丸は全力で劉璋軍を叩き潰した余勢をかって、曹操軍・高順軍にあたるというもの。

 ある意味、烏丸らしい体当たり的な行動だが、それをされると高順的には非常に困った事態であった。
 このまま後ろに逃げればそっくりそのまま消耗無しに夏侯惇と協同して烏丸の先鋒を潰し、その後に余力を持って曹操軍と合流できる。

 だが、自らの未来を理解した上でなお、退かぬ、そう告げた劉璋が高順は忘れられない。
 ぐずぐずしている高順に対して、法正、張松は無論、高順陣営の将が勢揃いし、彼女らは皆、決断を待っていた。




 誰もが黙して語らない大天幕。
 視線が注がれる先は高順のみ。



「斥候騎兵より急報!」


 天幕に転がり込むように入ってきた伝令に一同の視線が集中する。


「劉璋軍の両翼先端部より無数の敵騎兵が後方へ浸透、回りこんできています!」


 どよめきが起こる。
 度重なる戦闘で烏丸といえど、さすがに学ぶ。
 如何に被害少なく、大戦果を上げるか、その思考こそが戦術へと繋がるもの。



 早晩、劉璋軍と共に烏丸の包囲下に置かれてしまう。
 一刻も早く、抜け出さねばならない――


 居並ぶ面々がそう思ったとき、それを口に出す者がいた。

「高順様、ご決断を」

 法正であった。
 彼女の長い金髪が僅かに揺らめく。

「戦況はどうか?」
 
 法正の言葉に答えず、高順は問いかけた。
 問いに答えたのは張遼であった。

「定時報告では思ったよりも劉璋軍が持ちこたえているようや、やけども、焼け石に水。早いとこどうにかせんと潰されるで?」
「お言葉ですが」

 張松が口を開く。

「我々は形だけの督戦官であります。戦況不利となれば、貴女といえど、逃げることは恥ずべきことではございません」

 張松の長い黒髪が僅かに靡く。
 高順の知る三国志演義では醜男と評されているが、実際には日本人形のように美しかった。
 彼女は重々しい表情で高順を見つめ、退却を促す。

 「敵の勢いがもっとも強いところはどこか?」

 その問いで華雄らは察しがついたのか、微かに笑みを浮かべた。
 彼女らに対して、怪訝な顔で法正が答える。

 「無論、前方でしょう」

 高順は鷹揚に頷き、告げた。

「孝直らはただちに自らの兵を連れて後ろへ退くべし。我々は敵将に挨拶してから後退する」

 誰もがその言葉に耳を疑った。
 彼女らに対し、高順は再度、告げる。

「聞こえなかったの? 前へ向かって撤退して、ついでに敵将の首を取っていく」

 ただ全滅しに行くようなもの――と考える者はほとんどいなかった。
 華雄や張遼といった連中は面白い、とばかりに舌なめずり。
 対する法正、張松の2人は何やら納得がいったらしくうんうんと頷いている。

「えーっと、それって全滅しに行くだけじゃないのかなぁ?」

 そんな中、数少ない常識的な考えの馬岱が問いかけた。
 もっともな問いかけに高順は告げる。

「敵は劉璋軍と戦い、勝利するでしょう。故に、そこが最大の隙となる。幾ら精強な烏丸といえど、一戦の後には気が緩むわ」

 ああ、なるほど、と馬岱は手を叩いた。

「だが、兵力の温存という観点からみれば私は賛同できないな」

 馬騰の言葉に高順はすぐさま答えた。

「もし、羌の私が皇族である劉璋を敵軍の中から救出したとなれば、どうなるかしらね?」
「……頭の回るヤツだ」

 馬騰は苦笑しつつ、そう返した。

 やる意味はあった。
 成功すれば高順の評価は一気に改められることになるだろう。
 だが、そのリスクが大きいのは言うまでもない。

「虎穴に入らずんば虎児を得ず、よ。で、その為の陣形は錐行」

 錐行陣。
 くさび形のこの陣形は敵地を突破・分断する際に使われるものだ。
 しかし、高順は陣形における配置を極めて贅沢に選択することができた。

 故に……


「先頭は奉先と仲穎、以下、順に雲長、孟起、子龍、寿成、文遠、華雄……という感じに」



 恐ろしい布陣であった。
 知る人が見れば少数兵力であるが、数万の軍勢を敗走させてしまうのではないか、と思えるだろう。
 高順がやるのはただの錐行陣ではなかった。
 最前列から攻撃力・防御力の高いものを順に配置し、敵陣の突破を図るその陣形はまさにパンツァーカイル。
 人間戦車みたいな呂布や董卓らにとってはうってつけの陣形かもしれない。 

「孝直、子喬。そういう感じだから、さっさと後ろへ行きなさい」
 

 高順の言葉に2人は頷き、駆け足で天幕を飛び出していった。
 残された猛将・名将らに高順は笑みを浮かべ、告げた。

「全員集めなさい。出陣前に気合を入れる為にちょっとした儀式を行うわ」





 高順の指示の下、ただちにその儀式の準備は整えられた。


 高順はここで裏切るような輩はもういないだろう、と考えていた。
 どの時代であろうと、事前に裏切るならばともかく、土壇場で裏切る輩はたとえ大きな戦果を上げたとしても、その後に勝者からも敗者からも軽蔑されるのに変わりはない。




「壮観ね」



 高順は整列する兵達を見つめた。
 横に100人の列が縦に10組。
 列にあるのは人間だけではなく、それぞれの愛馬もまた同じく主人の隣にあった。
 彼女らの視線は前に立つ高順に注がれ、そして彼女らの手に、また高順の手にも水の入った盃があった。
 高順は兵達の全てが精悍な顔つきであることに満足しつつ、傍らに控える将達に視線を移した。
 呂布、董卓、張遼、華雄、馬騰、馬超、馬岱、関羽、趙雲。
 歴史に名を残す豪傑達。
 高順は不意に目頭が熱くなった。
 改めて、彼女はこの時代に来て、彼女達と出会えてよかった、と心の底より思う。
 そして何よりも、こうしてようやく共に肩を並べて戦えることを。
 また、その中には法正と張松の姿もあった。
 2人は兵達を逃した後、どんな儀式が行われるかを見た後に馬でもって逃げるとのことだ。

 高順は深呼吸し、ゆっくりと言葉を紡いだ。
 空は雲一つ無い程に快晴であった。

「諸君、我々が為すべきことは非常に簡単であり、単純なことである」

 高順の声が辺りに響き渡る。
 一言一句、逃しはしない、と将兵はより真剣に高順を見つめる。
 これには法正も張松も驚いた。

 どこの軍であろうと、ここまで規律に優れたものを彼女らは見たことがなかった。
 訓示など行なっても聞いている者は半分いればいい方で、大多数は姿勢も崩して聞いていない。
 曹操や孫堅、あるいは袁紹といった有力諸侯の軍勢ではそのような輩はいなかったが、それでも聞いていなさそうな者はちらほらと目についた。
 しかし、高順の兵にそのような者はいなかった。

「前へ向かって撤退するついでに、敵将の首を土産としていただく。狙いは将のみ、それ以外の首なんぞ豚に食わせる程度の価値しかない」

 一拍の間をおき、高順は更に告げた。


「我々は冷徹な思考と豪熱の力でもって勝利する。旭日、未だ沈まず」

 高順は手に持った盃を高く掲げ、太陽に重ねあわせた。
 そして、それを一気に飲み干した。
 彼女が飲んだのを契機に、将兵達もまた一気に飲み干す。

 飲み干した高順は叫んだ。

「かかれぇー!」

 高順の号令に将兵達は機敏に動いた。
 それぞれが愛馬に跨り、次々と動いていく。
 呂布や董卓に率いられる烏丸騎兵達は蹋達が選んだ精鋭達だ。
 彼女は高順の傍に精鋭を置きたかったが、何よりも突破をという高順の意向を受けて、最前列へ精鋭を配置することにした。

 無論、蹋達本人はちゃっかり高順直率としており、また高順個人の要望で亥倫らも高順直率となった。

 あっという間に陣形を整えた高順らに法正と張松は唖然とし、逃げることも忘れていた。
 彼女達にとって、陣形を組むというのは例え少数であっても時間がかかり、遅々として進まないもの、という認識があった。
 それが見る見るうちに組み上げられていく様はまるで妖魔にでも化かされているかのようであった。

「それじゃ、行ってくるから」

 その声にハッとし、2人が見ればそこには馬に乗った高順の姿が。

「あ、え、ぶ、武運長久をお祈りします!」

 慌てて法正がそう答えたものの、高順は笑みを浮かべ、右手の手のひらを見せるように、指先を額にあてた。
 その動作に法正と張松は首を傾げた。

 敬礼がやはり通じなかったことに高順はちょっとだけ悲しくなりながらも、馬を走らせたのだった。
 高順率いる1000余名の騎兵は前へ向かって撤退を開始した。








「も、もう逃げてもいいんじゃなかろうかの? ほ、ほら、妾だけでいいと思うし……」

 僅かに体を震わせながら、劉璋はそう声を出した。
 戦が始まり早1刻余り。
 劉璋軍はよく粘っていたが、元々の練度と実戦経験の差により、烏丸の勢いを止められず、本陣手前まで突破を許していた。
 また、後方に烏丸が回り込んだという報告もあり、絶望的な状況であった。

 そのような中で劉璋の言葉。
 それは周囲にいる兵達に向けた者であった。
 それを受けた兵士達は呆気に取られた顔をした後、すぐに声を上げて笑った。


「李玉様は1人では何にもできないでしょう?」
「そこで座っていてください、邪魔ですから」


 そのように返された劉璋は怒ったりはせずに、ただ俯いた。
 涙がぽたぽたと流れ出てくるが、それをゴシゴシと拭うとしっかりと前を向いた。

「ふ、ふん、どうなっても知らんからの」

 つーん、とそっぽを向く劉璋。
 そうこうしているうちにいよいよ戦闘の音は近づいており、刻一刻と死が近づいてきていた。

 悲鳴と金属の擦れる音、馬のいななき。
 それらが最高潮に達したとき、天幕の外は急に静かになった。

 そして、ゆっくりと天幕へと入ってきた者達がいた。
 金髪碧眼の長身、革の鎧を纏った烏丸兵達、その数5人。
 彼女らは壮絶な笑みを浮かべており、その手に持っていたものを放り投げる。
 何人かの首であった。

 それを見、劉璋はかっと目を見開いた。


「菜々……!」


 劉璋が呼んだのは真名。
 その真名の持ち主――王累は首だけとなって劉璋の前に転がっていた。

 その一瞬で状況は動いた。
 劉璋の傍にいた兵達――といっても10名程度――は一斉に襲いかかった。

 しかし、烏丸兵達はそれを読んでいたのか、軽々とその刃を剣で受け、あるいはかわす。
 そして、そこからすばやく反撃に転じ、見る見るうちに胴を貫かれ、あるいは首を取られ、あっという間に全滅してしまった。

 烏丸の1人が劉璋の前へと歩いてきた。
 その者はそれなりの地位にいるのか、装備しているものが後ろにいる烏丸兵達とは違った。
 彼女は劉璋の首を掴んで持ち上げると問いかけた。

「高順はどこだ?」

 劉璋は笑ってしまった。

 自分達がまるで眼中にないことに。
 そして、そこまで高順を恐れている烏丸達に。

 きっとこの者らにとって妾の首なんぞ豚に食わせる程度の価値しかないのじゃろう――

 そう劉璋は思いつつ、ゆっくりと口を開いた。

「妾の仕事はそなたらと『戦うこと』であり、高順の仕事はそなたらに『勝つこと』じゃ」

 劉璋の言葉に烏丸兵達は首を傾げた。
 その様に劉璋はくつくつと笑う。

「意味が分からぬようじゃが、何、すぐに分かることじゃ。妾はその結果は見れぬじゃろうがな」

 そう言い、劉璋は目を閉じた。
 彼女の気持ちはさっぱりとしたものであった。
 恐怖を超越したが故に、平然であり平静。

 そうであっただけに、その音が聞こえたとき、劉璋は目を開いた。
 聞こえてくる大勢の馬の駆ける音。

 それらは全て後方から聞こえてきていた。

 後方には何もない。
 劉璋がいる本陣が最奥であるから。
 そう、後方に劉璋軍はいない筈であった。
 回り込んだ烏丸はいるが、それすらも合流には早すぎる。

「何だ? 何が起こっている?」

 烏丸兵に劉璋は笑って答えた。

「そなたらが求めてやまなかった輩が来たのじゃよ」

 烏丸兵達の視線が劉璋へと集中する。
 その視線にあった畏怖の感情に彼女はようやく烏丸共に一矢報いた、そう満足しながら告げた。

「高順が来たぞ。そなたらに敗北を届けに。あの馬鹿者め、さっさと撤退すれば良いものを……」

 瞬間――

 高らかに鳴り響く突撃喇叭。
 それは幾重にも木霊し、辺りに響き渡る。

 劉璋軍の陣地内で残敵掃討及び捕虜漁りや物品漁りをしていた烏丸兵達ははっきりとその音色を耳にした。

 劉璋の首を掴んでいた烏丸兵の変化は劇的であった。
 彼女は真っ青な顔をして、劉璋を放り捨てるや否や、背後の兵達に向かって叫んだ。

「高順だ! あの音色は高順が突撃するときに使っていた!」
「楼班様、ただちに動ける者を高順へあたらせましょう」

 兵の言葉に楼班は頷き、踵を返した。


 後に残された劉璋はよっこいしょ、と体を起こして目を数度、瞬かせた。
 彼女は傍に転がっていた王累の首を大事にその胸に抱くと、物言わぬ王累に語りかけた。

「……のぅ、菜々。妾は生き残ったようじゃ。これもまた天命なのじゃろうかの」

 さて、高順と合流するとしようかのぅ、と劉璋は王累の首に加え、最後の最後まで自分に付き従った兵達の首を手近なところにあった麻袋に入れた。

 劉璋はどうしてもこれから自分が死ぬとは思えなかった。
 むしろ、彼女はどうやってこれから生きていこうか、と今後の身の振り方が気になった。
 そこまで考える余裕が出てきた自分に彼女は苦笑してしまった。

「益州へ戻ったとしても、何事も無かったかのようには過ごせまい。反乱を起こしたい連中が多いからのぅ」

 不穏分子はこれまで王累をはじめとした忠臣達が抑えてくれた為に何とかなってきた。
 しかし、今回の戦でその忠臣の全てを失ってしまった。

「……高順の庇護を受けるしかないかのぅ」

 様々な思惑があるとはいえ、建前上はこうして助けに来てくれた高順である。
 無碍に扱うことはできまい、と劉璋は思い、高順の厄介になることに決めた。

「菜々や他の者達の弔いもしたい。日がな一日、書を読み、詩を詠み、散歩をし、草花を愛で、逝った者の供養をする……それができれば満足じゃ」

 馬の駆ける音はいよいよ間近まで迫り、怒号と悲鳴、雄叫び、馬のいななき、剣戟の音。
 様々なものが音となり、さながら歌のようになっている。
 それは死を糧とする闇の歌だ。

「じゃが、本当に高順は馬鹿者じゃ。大方、妾を助けたという実績が欲しいのじゃろうが、幾ら何でも無茶が過ぎる」

 憤っているというよりは、しょうがないのぅ、とそういう顔の劉璋。

「妾に全部打ち明けたといい、今回のことといい……悪い輩ではないようじゃなぁ……」

 そのときであった。

「後ろから失礼」

 そのような声と共に天幕に後ろから突っ込んできた騎兵がいた。
 長い銀髪がなびき、その顔は返り血で紅く染まっている。

「おお、高順。また会ったのぅ」

 呑気に手を挙げて挨拶をする劉璋に高順は呆気に取られた。

「李玉様……失礼ですが、何か性格が図太くなっておりませんか?」
「李玉で構わぬよ。何、そなたが色々考えた結果、これからの居候先として選定したのじゃ。よろしく頼む」

 何でそうなってんの、と思ったが高順に問いかける時間はなかった。

「覚悟ぉお!」

 背後から突っ込んできた烏丸騎兵。
 剣を振りかざして来た彼女を高順は振り返りもせずに青紅の剣を振るい、その首を飛ばす。
 鮮血が吹き出し、辺りを真っ赤に染め上げていく。

「もう何でもいいから早く! 時間がない!」
「うむ、暫し待て」

 すると劉璋は素早く物品を麻袋に纏め、それを高順へ手渡し、自身は首の入った麻袋を大事に小脇に抱えつつ、高順の後ろへと乗った。

「で、どのように逃げるのじゃ?」
「前へ向かって撤退しつつ、敵将の首を取る」
「……は?」

 劉璋が呆気に取られている間に高順は馬を走らせ、天幕から出た。
 天幕を迂回する形で高順軍は進んでおり、高順は入ってきたのとは逆の――すなわち正しい出入口から――出た。

 するとそこには地獄が広がっていた。
 旭日旗やその他の将旗を示す一群目掛けて数多の烏丸兵が追いすがり、あるいはその侵攻を止めようと立ちふさがっていく。
 だが、その勢いたるや凄まじく、とてもではないが止められない。
 特に高順軍本隊の前方では立ちふさがった烏丸兵がポンポン空を飛んでいる。
 それも1人2人といったものではなく、数人単位で。

「お、おい! 人間が空を飛んでおるぞ!」
「ああ、ウチの呂布か董卓か馬騰か馬超か関羽か趙雲か、ともかくその辺りがやったんでしょ」

 何でそんなに心当たりがあるんじゃ、と劉璋は思ったが何も言わなかった。
 そうこうしているうちにも、どんどん烏丸兵はその軍勢へと集まってきている。

 予定では高順は劉璋を連れて単独で離脱、高順軍本隊も離脱していく筈だ。
 事実、高順軍本隊は進路をずらし始めており、陣を斜め前へと横切っていく。
 このまま逃げよう、高順がそう思ったときであった。

「ああ、お客さんか……」

 進路を塞ぐように進んでくる烏丸騎兵の一団。
 その先頭にいる者の顔に高順は見覚えがあった。

「ど、どうするのじゃ?」

 先ほどはもう死ぬことはないだろう、と思った劉璋であったが、ここにいたって再び死の恐怖が舞い戻ってきた。
 彼女は涙目になりながら情けない表情でガタガタ震えつつも、その手にはしっかりと首の入った麻袋を抱えていた。

 その様子に高順は少しばかりからかってみることにした。
 こういう危機的な状況では焦ったら負け、ということを彼女はこれまでの経験から導き出していた。

「李玉の真名をくれるなら、ここから逃げ出せるような気がするけど、どうする?」
「わ、妾の真名は爾霊じゃ、先祖の霊を祀り、鎮める、そういう意味がある……」
「きっと母上は教養深い方なのねぇ……あ、私の真名は彩だから」
「う、うむ! では彩よ、さっさと逃げてたも!」

 そう劉璋が告げたそのときであった。
 烏丸騎兵の先頭の者が突出し、高順の目の前までやってきた。

「高順、また会ったな」
「ええ、楼班。今回は中々良い手を使ったわね」

 高順の言葉に楼班はふん、と鼻を鳴らした。

 彼女は高順の狙いが劉璋の奪還であるだろう、と睨み、突入してきた一群への迎撃指示を出すと子飼いの兵を連れてじっと機会を窺っていたのだ。

「こっちが予想もしていなかった奇襲をして……本当に、お前は……」

 その言葉に高順はにやり、と不敵な笑みを浮かべ、言葉を紡ぐ。

「これだけで終わると思ってるの?」
「……何?」

 訝しげな表情の楼班に高順は問いかける。

「さて問題。曹軍3万はどこにいるでしょう? そして、私が少数の兵力でわざわざここへ来たのは何故でしょう?」

 その言葉に楼班の顔は再び青くなった。

 もし、ここにはいない曹軍がこちらの後方へ回りこんでいるとすれば――?
 高順に気を取られるよう、仕向けられたとしたら――?

 楼桑村で自分を打ち破った高順が、何の策も無しにこのような無謀極まりない攻撃をするだろうか――?


 思考を巡らせる楼班は過去に高順と戦い、その恐ろしさを知っているが故にとある答えを導き出した。

 曹操軍はより大回りし、自分達の後方へ回り込み、一気呵成に本陣を粉砕せんとしている。
 高順はただの囮である、と。

 楼班はゆっくりと深呼吸し、目前にまで迫った敗北を回避する術がないことを戦士の本能で悟った。
 彼女は諦観に満ちた表情で問いかけた。

「高順……どうしてお前は敵であるのか?」
「敵になりたくないなら、降伏すればいいじゃない。あなた方から見れば裏切った烏丸兵達は私の怖さをあなたよりもよく理解していたみたいだから、何ら恥ずべきこともない」

 軽い口調であったが、高順は真剣であった。
 何しろ敵は30人はいる。
 ここで折れてもらわないと自分の身が危ない。
 大立ち回りをかつて演じたが、劉璋を守りながらそれができると確信する程、高順は自分の実力を評価していなかった。

「もはや烏丸に勝ち目はないだろう。あなたの下で戦うのもやぶさかではない……」

 だが、と楼班は続けた。

「私は烏丸の戦士だ。敵の総大将を前にして何もしないで降伏をするのは恥辱極まりない……」

 楼班は手に持っていた剣を構え、剣先を高順へと向けた。

「私と勝負しろ!」

 そう言い放った彼女に対し、高順は深く、深く溜息を吐いた。

 やっぱり戦うのね、この時代はホント嫌。

 ついこの間はこの時代は最高とか言っていた癖にこれである。

「分かった、分かったわよ。そのかわり負けたら私の命令は全部聞いてもらうから」
「構わん……その荷物をさっさと下ろせ」
「荷物呼ばわりとは失礼なヤツじゃのぅ」

 ぷんすか怒りながら、劉璋はそそくさと高順の馬から下りた。
 彼女に物品の入った麻袋を手渡した後、高順はゆっくりと青紅の剣を構えた。  

「征くぞ」

 短く告げ、楼班が馬を走らせた。
 一目散に駆けてくる彼女に対し、高順は極めて冷静であった。
 彼女は楼班が自らの射程距離に入るなり、素早く剣先ではなく、柄を楼班へと向ける。
 楼班は剣を横に構え、一直線に切り込んでくるが、高順は全く恐怖を感じなかった。

 交差する瞬間、楼班は剣を横薙ぎに振るう。
 一撃でもって首を落とさんとするその刃はしかし、空を切った。
 高順は目いっぱいに馬上で体を目いっぱいに低くし、やり過ごしつつ、その柄を楼班の鳩尾へと叩き込んだ。

 高順により強制的に前進を止められた楼班であったが、彼女の馬は止められていない。
 故にそのまま楼班は後ろへと倒れ込み、地面へと落下してしまった。

 その様子を見て高順は大きく息を吸い込み、高らかに告げた。

「敵将楼班! この高順が討ち取ったぁ!」

 正確には死んでいないのだが、とりあえず気絶したことは確かだ。
 幾ら烏丸が頑丈とはいえ、鳩尾へのカウンターと落馬で気絶しない筈がないのだ。

 その声を聞き、高順軍本隊を追いかけていた多くの烏丸兵達は馬の足を止めつつ、顔を向けて何で高順がそこにいるんだ、と驚愕し、ついで地面に倒れている楼班へと視線を向けた。
 その隙に高順軍本隊は戦場から離脱していった。



 離脱を見届けた高順はちょうどいい、とばかりに更に告げた。

「烏丸の者達よ、あなた方は漢族に降伏したとしても奴隷として使い捨てられる末路しかない!」

 だが、と高順は続けた。

「この私は羌族であり、漢族ではない! 私は頼まれて仕方がなく漢族に協力していたのであって、烏丸に恨みは一切ない!」

 高順はそこで言葉を一旦切り、周囲を見回す。
 烏丸兵達は誰も彼もが戦う手を止め、高順へと視線を注いでいる。
 ざっと見て数百人程度。
 劉璋軍の陣地は広く――2万の兵士がいたのだから当然だ――聞こえていない烏丸兵も相当数いるだろう。
 現在、高順達がいるのは本陣前のちょっとした広場のようなところだ。
 元々、本陣の真後ろから突っ込んで劉璋を助けつつ、適当に敵を蹴散らした後、離脱するというもの。
 本陣周辺という限定されたところであるならば、そこまで多数の敵を相手にしなくても済むのだ。


 ふと高順は楼班へと視線を向けてみた。

 彼女はどうにか目を覚ましたのか、背中を押さえながらこちらを見上げていた。

「そこで諸君に提案したい。私の部下にならないか? さすれば最高の戦場と最高の栄誉と最高の繁栄を提供しよう」

 誰もが皆、その言葉を吟味する中で唯一人、動いた者がいた。
 その者は楼班の直属の配下であり、楼桑村会戦の最後の場面で矢を射った者。
 彼女は素早く矢を弓につがえ、狙いをつけた。

「高順覚悟ぉおお」

 その叫びと共に彼女は矢を放った。
 その距離は短く、矢は速く、まさに必中の勢い。
 高順はその矢を捉えたが、避けるにも剣で斬り落とすにも時間がなさ過ぎた。
 故に彼女は致命傷とならないところを矢へと向けた。


 どすっという鈍い音。
 放たれた矢は高順の左腕に突き刺さっていた。

 誰かが息を飲む音が聞こえたが、高順は構わずにその矢を引き抜き、懐から布を取り出して止血処置を行う。
 その最中、烏丸兵は矢を放った者も含めて誰も動かず、高順の一挙一動を見ていた。

「只今の狙撃、見事也! 是非とも我が配下に加えたい!」

 高順の言葉に烏丸兵達は呆気に取られた。

 目前で命を狙われてもなおこの態度。

 楼班を含め、烏丸兵達は根本的に高順は何かが違うことを感じ取った。
 烏丸に限らず、勇敢で勇猛な者程、高い評価を受けやすいのがこの時代。
 高順の行動はまさに好印象を与えるのに十分過ぎた。


「高順よ、あなたの言葉に嘘偽りはないか?」

 楼班が立ち上がって問いかけた。

「無い。私は天下を取るつもりだ。私の天下取りに協力すれば先の全てはついてくるだろう」

 高順の言葉にざわめきが巻き起こった。
 それはまさに漢に、傾きつつあるとはいえ強大な漢に弓引くというのだ。
 確固とした勢力基盤を持たず、またその兵力も有力諸侯と比べて非常に少ないのに。

 楼班は笑ってしまった。
 こんなことを言えるのは余程のホラ吹きか、自殺志願者くらいなものだ。

 だが、高順には確固とした実績があった。
 20万の馬騰率いる涼州諸侯軍を2万で打ち破り、先の楼桑村では烏丸に対して三段構えの陣でもって勝利を収め、今また勝利を収めた。

 高順が言えばそれはホラでも自殺志願でも何でもなく、成し遂げることができることに思えてくる。

 楼班は負け、敗軍の将となったがすっきりとした気持ちとなった。

 噂に違わぬ猛将である高順、彼女の下にならついても良い――


「……我々は降伏する。ただし、あくまで我々だけだ。私の指揮下にある烏丸兵……およそ3000名が対象だ」
「分かった。あなた方は捕虜としてしばらく過ごしてもらう」

 楼班はその言葉に隠された意図を見抜き、心の中で感謝した。

 つい先ほどまで味方であった者と戦うのは心情的に辛いものがある。
 故に高順はこの戦が終わるまでは捕虜とする、と言ったのであった。

「今、ここにその全員がいるのか?」
「ああ、そうだ。劉璋軍の主力を潰したときは6万はいたが、主力は後方へ下がり、私の部隊が陣地制圧と残敵掃討となった」

 良い情報を聞いた、と高順は笑みを浮かべつつ、告げた。

「諸君、劉璋軍は消滅した」
「これ! 妾が生きておるぞ!」

 劉璋が抗議したが、高順はじーっと彼女を見て問いかけた。

「じゃ、戦う?」
「……消滅したのじゃ」

 しょんぼりとした劉璋を横目で見つつ、高順は改めて告げた。

「使えるものはウチの物資として再利用する。兵糧から武具、馬、麻袋、桶一つに至るまで全部持ち帰りましょう。烏丸の本隊に気づかれる前にさっさと逃げましょう」

 高順の言葉に楼班以下烏丸兵達は動き始めた。
 未だ高順へ降伏したことを知らないこの場にはいない烏丸兵へ伝令を飛ばしつつ、物資漁りに精を出す。

 そうこうしているうちに余りにも帰りが遅い高順の様子を見に決死隊とも言うべき部隊がやってきた。
 董卓、趙雲、華雄を筆頭に烏丸騎兵200で構成された部隊であったのだが……


「お前、馬鹿か?」

 開口一番、華雄にそう言われた高順はむーっと頬を膨らませた。

「いやぁ、主は全身が肝でできているのではありませんかな?」

 趙雲は褒めているのか、からかっているのか、いまいち判別のつかない言葉を高順へと投げかけた。

「よかったぁ、彩ちゃんが無事で」

 普通の感想を述べる董卓に高順は癒されたのですっかり背丈が同じの彼女の頭を撫でてやった。
 えへへ、とはにかむ董卓に更に癒された高順はすっかり機嫌を直した。

「で、華雄。そういうことだから、本隊に気づかれる前に逃げるわよ」
「ああ、分かった。元譲が手ぐすね引いて待っているから、さっさと行くぞ」

 溜息混じりに華雄は告げた。
 彼女からすれば――というより全ての高順軍の将兵からすれば敵中突破の撤退であった筈なのに、何で総大将が単独で敵将とその兵3000余りを捕虜にしているんだ、と問い詰めたくなった。

 ともあれ、今回の戦果を認めないわけにはいかなかった。

 これでまたコイツの名が上がるなぁ、と華雄は嬉しいような、親友に遅れをとって悔しいような微妙な気持ちで董卓の頭を撫で続ける高順を見つめたのだった。

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