逃げた兵隊の穴埋めや対応について1ヶ月程でどうにか一段落した涿郡方面軍。
方面軍全体でみればたった300名程度の損失なので高順が言い訳した通りにそこまで致命的ではなかった。
とはいえ、高順陣営のみで見た場合は致命的になりそうだが、そこは虚勢で誤魔化した。
狼群戦術もあれ以来自重し――というか、もう二度と将無しで行われないことが決定された――楼桑村の守備を固めることに専念する一方で高順は明確な戦果を挙げようとあれこれ作戦を練っていた。
そんな中、夏侯楙が軍馬200頭と護衛を連れてやってきた。
曹操に送り出され、司馬懿と問答したあの日から20日程経過していた。
夏侯楙が来たことを知った郭嘉や荀彧といった曹操陣営の者は皆が皆、例外なく微妙な表情であった。
とはいえ、彼女らとて一流の者。
すぐさま曹操の考えに思い至り、高順が逃げられないようにとあれこれ手を回した。
高順も誰が来たかを知った瞬間にお引き取り願おうと思ったが、夏侯楙が持ってきた曹操直筆の書簡を郭嘉から提示されては追い返すわけにもいかない。
会ったら負け、なし崩し的に登用させられてしまう……そういう思いが高順にあり、賈詡や陳宮にも相談したがどうにもならない、と匙を投げられてしまった。
とはいえ、少しでも対抗すべく、賈詡同席の下で夏侯楙と会うこととなった。
「お初にお目にかかります。私は夏侯子林と申します」
そう言い、平伏する夏侯楙に高順は「おや?」と思った。
彼女が知っている夏侯楙はケチで性格が悪く、しかもアホというもの。
しかし、今目の前にいる夏侯楙からそんな雰囲気は感じず、理知的で生真面目な、委員長タイプといった印象だ。
事前に夏侯楙の駄目さを聞かされていた賈詡も話が違うじゃないの、と高順へ問い詰める視線を送るが、向けられた方としても首を傾げるしかない。
そんな2人の様子は気にもせず、夏侯楙は平伏したままだ。
高順はそんな彼女に告げた。
「顔を上げなさい……で、孟徳殿からの書簡によれば真面目で頑張り屋とのことだけど……ウチで何ができるの?」
「何でもできます。烏丸との初戦において、私は兵を率い、妹達と助け合いながらこの討滅に成功しました。また、私は算術や帳簿をつけるのが得意で、財務を任せてもらえれば無駄を徹底的に削減することができます」
夏侯楙は嘘は言っていなかった。
彼女は確かに妹達に助けてもらいながら烏丸を討伐しているし、また金儲けが趣味で儲けたことはないが、算術や帳簿に関しては比較的得意であった。
「懸念するような問題はない、とボクは見るけど?」
そう告げる賈詡の言葉に高順も僅かに頷いた。
史実とも演義とも違う世界である、ということからこういうこともあり得るのかもしれない――そういう考えに高順が至るのは速かった。
「そうね……孟徳殿のところとは勝手が違うと思うから、しばらくは見習いという形にしましょう」
「ありがとうございますっ!」
夏侯楙は再び平伏した。
高順としてはどうにも目の前の彼女が本当に史実・演義共に駄目駄目な夏侯楙のようには到底思えなかった。
高順の知識にある夏侯楙は夏侯惇の息子あるいは養子であるが、軍略も政略も駄目でケチな以外には取り柄がないくらいに無能だ。
親の七光を地でいく人物であり、演義では姜維により天水城が開城しかけたときに羌族の地まで逃げ出し、二度と魏に戻らなかった。
高順が警戒するのも当然であったが、この夏侯楙は違う……そう彼女は思った。
しかし、やっぱり史実や演義と同じ夏侯楙だ、とすぐに思い知ることとなった。
疲れを癒す為に翌日から忙しい賈詡ではなく、陳宮の下に夏侯楙はつくこととなったが、初日からその陳宮は怒りっぱなしであった。
夏侯楙はあまりにも使えなさ過ぎた。
陳宮の護衛についている馬岱も最初はフォローしていたのだが、段々と庇いきれなくなり、しまいには匙を投げてしまった。
夏侯楙本人としては真面目に頑張っているのだが、それが結果に結びつかない。
その姿勢が余計に陳宮を苛立たせた。
何でそんなに頑張っているのにできないのです、実は内心ふざけてるんじゃないのですか、とそういう風に思われてしまった。
これは拙い、と高順は次の日は事務仕事ではなく、馬超に任せた。
気の良い彼女ならば怒鳴ったりはしないだろう……という思惑だ。
任された馬超は自信満々に夏侯楙に武芸の初歩を教えたのだが……これも全然駄目であった。
彼女は予め高順から夏侯楙はド素人ということを聞かされていた為に新兵訓練用の軽いものから始めてみた。
だが、それでも半日も経たないうちに夏侯楙は体力の限界に達して倒れてしまった。
その翌日、どうにか回復した夏侯楙を今度は張勲に任せてみたが、やはり駄目で……
それから2週間程、夏侯楙はあちこちの、あるいは2日続けて同じ将の下については駄目っぷりを発揮した。
一連の失敗を聞いた高順は溜息を吐いた。
華琳はとんでもない策を使ってきた、と。
仕官してきた人物を放逐するというのは中々に難しい。
それが曹操の推薦文を持ってきた人物なら尚更だ。
下手に放り出しては一気に評判が低下してしまう。
放り出せないならば権限の無い役職を与えてお飾りとなるか、もしくは後腐れのないように死んでもらうのどちらかしかない。
そして、高順陣営には無駄飯食らいを置いておく余裕はない。
故に、賈詡は張り子の虎の極みとして暗殺を真剣に検討し始めた。
また、夏侯楙への陰口が囁かれ始めた。
将達にはそのようなことはなかったが、兵や文官達の間でそれは広まった。
夏侯楙への対応に苦慮する高順をある夜、趙雲が訪れた。
彼女がこうして夜に、なおかつ私的に会いに来るのはこれが初めてであり、高順は驚きつつも彼女を天幕内へ招いた。
「まぁ、一献」
「ありがとう」
趙雲にお酌され、高順はゆっくりと酒を飲んだ。
じんわりと広がる仄かな味にほう、と高順は感嘆の息を吐く。
「ささ、メンマもどうぞ」
趙雲の勧めで高順はメンマを一つ、口へ運ぶ。
シャキシャキとした食感と噛み締める度に出てくる旨味に高順は溜息を吐く。
その様子に趙雲は満足そうに頷きつつ、静かな口調で切り出した。
「最近、高順殿はお悩みのようで」
「ええ、まぁ……」
「子林殿のことですな」
趙雲の断定に高順はゆっくりと頷く。
「私としても、子林殿の良い噂は聞きませぬな。他の将らも、陰口こそ叩いてはおりませぬが……そこまで駄目なのですか?」
「あなたには任せたことがなかったわね……ハッキリ言って駄目ね。しかも、本人は極めて真面目に取り組んで失敗しているから、それが内心ではふざけてるんじゃないのか、と思われて」
「なるほど……して、高順殿はどうされるおつもりで?」
核心を趙雲は直撃した。
高順は僅かに俯き、思考を巡らせる。
切り捨てるのは簡単だろう。
賈詡は抜かりなくやってくれる。
だが、それは曹操に攻める口実を与えることにもなる。
夏侯楙の駄目っぷりは曹操陣営では知られているが、他の諸侯がそこまで知ってはいない。
夏侯一族の者が高順陣営に仕官した後に不慮の事故で死んだとしても、高順の方が圧倒的に曹操と比べて立場が悪い。
曹操が声高にこれは暗殺だ、と叫べば一瞬で民衆は曹操に味方するだろう。
だが、と高順は更に考える。
果たして趙雲がそのような冷徹な論理で自制を求めてくるか、と。
彼女が求めている答えはそうではないのではないか……?
そこに思い至り、ふと趙雲の着物に描かれた蝶が目に入った。
高順はああこれだ、と確信に満ちた気分で口を開いた。
「美しい蝶とて最初は毛虫。子林もきっとそうなのでしょう」
趙雲は満足気な顔で頷き、ですな、と肯定した。
それを見、高順は立ち上がった。
「どちらへ?」
「子林のところへ……安っぽい言葉でも、それが責任者の私が言えば多少は重くもなるわ」
「果たして、言葉だけで終わりますかな……?」
ふふふ、と笑う趙雲に肩を竦める高順だった。
夏侯楙の天幕は高順の天幕を中心とすれば一番端に位置していた。
万が一にも夏侯楙が曹操からの暗殺者という可能性がないわけではなかったが故の処置だ。
高順が天幕の出入口の前に立ち、中にいるだろう夏侯楙へ入っても良いか問いかける。
すると中から聞こえた了承の声。
高順はゆっくりと天幕の中へ足を踏み入れた。
「何か御用ですか?」
夏侯楙は特に変わった様子もなく、入ってきた高順にそう問いかけた。
高順としてはその何も変わった様子がないところに違和感を覚えた。
そして、同時に優しい言葉を掛けては逆効果ではないか、とも直感した。
泣いた跡があるならばともかく、表向きには何ともなっていない相手に対してそう言うのは藪蛇になりそうだった。
故に高順はハッキリと自分の望みを伝えることにした。
「私はあなたが無能か有能か、ということにも、どんな裏があるのかということにも全く完全に興味が無いわ」
夏侯楙の体が僅かに震えた。
「私があなたに求めるのはたった一つ、とても単純なことよ。自分にできることをこなしてくれればいい。今、あなたにできることは少ないわ。今の段階ではどうしようもない程にあなたは駄目。でもね、人間、どんなことでもやっていれば慣れてそれなりになれるわ」
高順はそこで言葉を切り、夏侯楙の反応を窺う。
彼女は微かに顔を俯かせ、問いかけた。
「凡庸でも……いいんですか?」
「凡庸でも無能でも構わないわ。自分の仕事をしっかりやってくれれば。あなたでもできる仕事を与えるのも私の仕事だから、あなたが自分でできる仕事を探す必要はないわ」
そう言い、高順は夏侯楙に背を向け、更に続けた。
「だから、あなたが自分の無能さに悩んで自殺するなんて当然許さないし、同僚とか兵に陰口叩かれるのも私が許さない。仕事を与えやすくする為に明日からは私の傍にいなさい」
以上、と高順は締めくくり、天幕をさっさと出たのだった。
天幕に再び独りとなった夏侯楙はしばらく立ちすくんでいたが、やがてゆっくりと呟いた。
「……初めてかもしれない。ハッキリと面と向かって、無能って言われたのは」
スッキリとした、憑き物が落ちたような気分であった。
努力して努力して、それでもできなくて、姉妹の励ましが辛くて、陰口が嫌で――
何でもできる人間の傍にいれば自分もできるようになると信じていた――
「……私は何もできない。だから、あの人についていこう」
孟徳様が言っていたことは本当だった、と夏侯楙は実感した。
そして、高順様は孟徳様とはまた違った魅力を持っている、とも。
一方の高順は夏侯楙の天幕を出た後、手近な兵に自軍の将は無論、郭嘉らや孫策らも全て集めるよう命じた。
ただちに集まった賈詡をはじめとした将達や郭嘉らや孫策らに対し、夏侯楙に関する苦情は全て自分へ直接言うように、と告げた。
夏侯楙を庇う高順に対し、体に惹かれたか、と華雄がすかさず鋭く切り込んだ。
しかし、高順は逆に華雄に対し、今まで一回も失敗したことがないのか、と問いかけた。
反論できずに押し黙った華雄に対し、高順は夏侯楙は未だ幼虫ではあるが、紛れもなく蝶である、と宣言したのだった。