不幸な少女



「怖いくらいに何もかもが順調だわ」

 曹操は陣中での執務の合間、そう呟いた。
 彼女の元に集う綺羅星の如き人材、数多の義勇兵に商人や名士からの援助。
 大陸制覇できちゃうんじゃないの、という冗談が冗談ではなくなってしまうような勢いだった。
 他の諸侯が財政赤字で苦しむ中、数少ない例外の一つとして曹操陣営は極めて平穏であった。
 それもこれも曹操本人の能力がずば抜けていることに加え、数多の有能な軍師達の賜物だ。
 曹操は陣中に残り作戦立案をする軍師と自身が統治する都市の内政を担当とする軍師、そして予備として手元に相談役という名目で残しておく軍師の3つの班に分け、一定期間毎に交代させていた。
 前線にいるというのはただそれだけで精神的に、体力的に消耗する。
 それ故に休養の意味も込めてのこの策であったが、これは見事に的中し、常に最大効率を発揮できるようになっていた。
 なお、過去に交代の隙を狙われたこともあったが、その際は相談役として残しておいた軍師達の活躍により難なく攻勢を跳ね返している。
 そして、今では軍師だけではなく、将軍や兵士達もこのように交代させていた。
 故郷ではないが、戦から離れて休養を取れることに一部を除いてこの方針は絶賛されていた。

「ただ……彩の動きが怪しいわね」

 曹操はその白く美しい指を自身の髪に絡ませつつ、遠い地にてこっそりと活動しているだろう好敵手へ思いを向ける。
 荀彧がついていったのは想定外であったが、高順との連絡役兼偵察役と考えれば悪くはない。
 現に彼女は定期的に曹操へ報告書を送ってきており、高順がどのような戦術を取ったか、どのような発言をしたか、などが克明に記録されていた。
 無論、これは郭嘉らからもきているが、どちらかといえば軍略が得意な彼女らと比べて、政略を主とする荀彧の視点はまた違ったものであり、曹操にとっては大いに参考になっていた。

「狼群戦術か……ある意味、遊牧民ならではの戦術ね」

 曹操の下には高順の兵隊が逃げた、というのは幸か不幸か、まだ伝わってはいない。
 
「賈文和を潰せば崩れるでしょうけど、殺さずに手に入れたいものだわ。彼女に匹敵するのは仲達くらいなもの……いいえ、戦場の指揮の方が得意な仲達だから、政略に関しては文和の方が上ね」

 何でもできるが故に司馬懿はよく勘違いされる。
 しかし、曹操は正確に彼女を見抜いていた。
 政略を任せても人並み以上の成果を出せるが、それでもなお司馬懿は将軍として最も能力を発揮する、と。

「……確か、烏丸討伐後は高順を幽州に置き、鮮卑への抑えとしようという動きがあった筈」

 その動きの中心人物に曹操は嫌悪感をあらわにした。

「張譲に賛同するのは虫唾が走るけど、知恵と勇気その他諸々を振り絞りましょうか……」

 幽州に高順が太守として就いたとき、鮮卑にそこを攻めてもらう。
 曹操の考えた策は一言で言ってしまえばそれだけであるが、精強な鮮卑といえど、高順陣営に勝つのは難しい。
 これまで本格的な戦を高順陣営はしていない。
 しかしながら、陳留に客将となっていたとき、あの頃のことを曹操は忘れていなかった。
 あの当時でも人外の域にいた呂布や騎兵を率いさせたら最強に等しい馬騰らを配下にしていたのだ。
 賈詡と合流した今では文官はともかく、武官は質・量共に充実していると聞く。

 故にテコ入れとして、なおかつ、対高順の経験を積ませる為に自軍から軍師や将軍を複数名、護衛付きで軍事顧問として派遣する。
 鮮卑はまだまだ勢力拡張をしたいが故に睨みを効かせてくるだろう高順がどうしても邪魔になる。
 漢としても高順を倒さねばメンツ的に問題がある。
 他の諸侯も一部を除けば今回の戦で青息吐息状態。
 高順と共に好敵手である袁紹もこの戦の後は黒山賊への対処に忙しくなる。
 孫堅陣営はそもそも領地が遠く離れていることもあり、対岸の火事程度にしか思わない。

 高順を攻めてもどこからも文句を言われることはなく、どことも利害が一致している。

「……どうせならあの子を押し付けようかしら」

 無能な味方は有能な敵に勝る――
 その格言通りの人物を曹操は知っていた。
 
「伝令、楙を……夏侯子林を呼びなさい」

 はじめてのじっせん、ということで進軍中はとても士気が高く、やる気に満ちていた夏侯楙。
 彼女は初戦において烏丸部隊との戦闘の際、自分が指揮官をやりたい、と名乗り出、2000名を率いたが、500名にも満たない烏丸兵に蹴散らされ、散々であった。
 結局、補佐としてついていた夏侯覇達が奮戦し、その烏丸兵達を殲滅したのだが、以来、曹操からは予備戦力として天幕にて待機するよう命じられていた。

 曹操は筆を取り、高順宛の書簡をしたためる。

「子林の売り込み文を考えないといけないわね」

 いわゆる推薦文もしくは履歴書みたいなものである。
 家柄などをさらさらと書いていき、どのような人物であるかを書こうとしたとき、彼女の筆が止まった。

「真面目でやる気があるのは確かね。ただし、間違った方向へ空回りする……金儲けが趣味っていうのが長所なのかしらね……それで成功して儲けているところを見たことがないけど……ああ、でも秋蘭が言うにはお小遣いの管理は得意らしいわね」

 ほとんど短所しか出てこなかった。
 言うまでもなく、長所を書くのが常である。
 いくら曹操の推薦というよりか、押し付けとはいえ、これでは受かるものも受からない。

 曹操は彼女にしては珍しくああでもないこうでもない、と悩む。
 大陸の行く末やあるいは諸侯との関係といった重大なものではなく、たった1人の推薦文を書くことに対して。

 そうこうしているうちに天幕に失礼します、という声と共に当人がやってきた。

「孟徳様、何か御用ですか?」
「ええ、あなたが活躍できる場所が必要だと思って」

 曹操の声は棒読みに限りなく近いが、言われた方は全く気づいた様子は無く、目を輝かせている。

 今年で15となる夏侯楙は夏侯惇と同じく黒髪を長く伸ばし、伊達メガネをかけており、理知的な顔だ。
 その胸もそれなりに大きく、見た目は有能そうにはみえる……だが、所詮見た目は見た目であった。
 夏侯一族に名を連ねてしまっていること、本人が真面目な性格であるのが不幸であった。

「あなた、高順陣営に行ってみない?」
「内部から崩壊させるのですね! 分かりました!」

 まてまてーい、と曹操はくるりと踵を返した夏侯楙の肩をガシッと掴んで無理矢理座らせた。

「いい? あなたはウチでは活躍できないわ。それに関しては私の力不足だと思う」

 曹操は自分で言って虚しくなった。
 言うまでもないが、彼女の人材運用はどの諸侯よりも巧みであり、適材適所を地でいっている。

「あなたはきっと、小さい勢力を大きくするときに本領を発揮する……と思うわ。幸いにも、高順は噂のような化物でもないし、私と唯一同じ視点に立てる人物よ。高順にとってきっと色々な意味で忘れられない存在になれるだろうからガンバッテ」

 最後の方はかなりいい加減であったが、夏侯楙ははい、と元気良く返事をした。
 こういう素直なところはいいんだけどなぁ、と曹操は思いつつ、悩んでいた人物像をさらさらと書く。

 真面目でやる気があり、頑張り屋。色々な意味で心に残る人物になる――
 要約すればそんな風になるが確かに嘘は書いていない。
 
 しかし、曹操は幾ら何でも申し訳なくなってきた。

「……子林、手ぶらで行っては失礼だと思うの。だから、軍馬200頭と1万銭を持っていきなさい」
「わかりました、早速準備してきます!」

 元気よく天幕から飛び出していった夏侯楙に曹操は深く、深く溜息を吐いた。

「悪いわね、彩。でも、これも戦略よ……」

 まあ、あなたなら……というか、手土産で誰でも意味に気づくでしょうけどね、という曹操の呟きは虚空に消えた。





 曹操の天幕を辞した夏侯楙は少し歩いて、空を見上げた。
 青空がどこまでも広がっているが、彼女の心は惨憺たるものであった。

「……凡庸はいらない、か」

 そう呟いた。
 夏侯楙とて自分の駄目さが分かっていた。
 幼い頃から夏侯惇や夏侯淵に追いつけ追い越せと勉学に武芸にと励んだが、てんで駄目であった。
 彼女の妹達はめきめきと腕を伸ばしていくのに。

 努力しても、努力しても、どうにもならず、しまいには追い出される始末。

「どうかしましたか?」

 唐突に掛けられた声に夏侯楙は飛び上がった。
 胸を抑えつつ、声の方へ顔を向ければそこには金髪を長く伸ばした人物がいた。

「仲達さん……何か?」
「いえ、子林殿が何やら深刻な顔でしたので」

 朗らかな笑みを浮かべている彼女は司馬懿。
 軍略も政略もそつなくこなす、同い年ではあるが、夏侯楙とは対極の位置にいる人物であった。

「仲達さん、あなたに質問したいのだけども……」
「私に答えられることでしたら何なりと」
「……凡庸な人間は必要か否か?」

 夏侯楙の問いに司馬懿は顔を変えずに内心で少し、彼女の評価を改めた。

「この世の多くの人間は凡庸でしょう。それが答えです」

 司馬懿の言葉に夏侯楙はなおも表情を崩さない。

「……ここに凡庸な者は必要か?」

 司馬懿はその一言で夏侯楙が曹操から何を言われたのか、おおよその検討がついた。

「あなたの現状を鑑みれば容易に分かることかと」

 夏侯楙の体が僅かに震えた。
 彼女が拳をきつく握り締めているのが司馬懿にも見えたが、意に介さない。

「失礼する……」

 そう言い、夏侯楙は足早にその場を去った。
 残された司馬懿はその後姿を見、呟いた。

「夏侯一族に生まれなければ、幸せな人生を送れただろうに」

 自分には分からない劣等感があるのだろうなぁ、と思いつつ、司馬懿は曹操の天幕へと歩み始めたのだった。
 


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