曹操の下でお手伝い……というよりか、見学したり、簡単な事務仕事をしたり、偶に夏侯惇と手合わせして過ごす高順達。
その中で唯一、陳宮を曹操がちょうどいいと小間使い兼文官見習いとして使っていた。
そうなったのも、人手が足りない、と曹操は言ったが、陳宮を除けばどいつもこいつも武官である、と分かっていたが故だ。
彼女らは確かに事務仕事もできるかもしれないが、それでも政ができるとは到底曹操には思えなかった。
そして、その武官は賊が出てくれないと働かせる場所がない。
平時において武官の活躍の場所といえば、兵の調練や警邏くらいなものであるが、常備軍という構想こそあったものの、曹操は財政上の理由からそれをまだ実施していない。
故に賊が現れたらその都度、募兵して適当に訓練した後に武官が率いる、という他の諸侯と同じような体制であった。
強いて他と違うところを上げるならば親衛隊の存在だ。
真っ黒な鎧で統一されたその部隊は曹操の趣味と実益を兼ねた部隊であり、隊員は全員女の子である。
ともあれ、そんな隊を客将に任せるわけにもいかない。
そんなわけで残った仕事は警邏となるわけだが、何分、陳宮と呂布以外は訳ありである。
高順と華雄が警邏なんぞした日には住民達が恐慌状態に陥り、馬騰達は馬騰達で色々とつつかれたくない過去がある。
陳宮は曹操自らが使っている。
となれば呂布になるが……色々な意味で不安になった曹操は何も言わなかった。
無論、給料もそれに応じて結構低いのだが、元々路銀には苦労していなかった面々だ。
そのことについては文句はない。
そんなわけで高順達は暇をしているのである。
故に高順は彼女と関係を深めようと暇を見つけて馬超をお茶に誘うことにした。
最近加入した呂布を除けば、最も関係が浅いのが彼女であったからだ。
「いやー悪いなー」
そう言いつつ、ばくばくと点心を食べる馬超。
城内にある食堂なのだが、格安ということもあってよく食べる。
勿論、高順のおごりである。
「で、翠。今日、誘ったのは他でもないんだけど」
「んー?」
もぐもぐ馬超。
「ほら、私とあなたってあんまりお話したことなかったじゃない?」
「そーいえばそーだな」
傍にあったお茶をがぶ飲み。
それで一息ついたのか、馬超は満足気な顔だ。
「まあ、ぶっちゃけて聞くけど……私のこと、嫌い?」
「へ?」
唐突な問いに馬超は鳩が豆鉄砲を食らったような顔となる。
そんな彼女に高順はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「馬騰を負かしたこと」
「んー……別に私はどうとも思わないけどなぁ」
そう言いつつ、ガシガシと馬超は頭をかく。
「ホントに?」
「ホント。そりゃ、うちの母ちゃんが負けるとは思ってもみなかったけどさ、勝負は時の運とも言うし」
うんうん、と頷く馬超。
そして、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべ、告げる。
「私個人としては今の生活が結構楽しいんだぜ? 西涼にいた頃も楽しかったけど、何つーか、こう、広い世界を見て回れる喜びってやつ?」
それに、と馬超は続ける。
「私だって武人の端くれだから名を上げたいし、虐げられている民とかそういうのを見捨てることもできない。だから、彩の例の連中を打ち倒すっていうのに協力したいし、お前が天下取るっていうなら協力するよ。そうすりゃ私の名も勝手に上がる」
どうだ、と得意げな顔の馬超に高順は自然と笑みを浮かべてしまう。
「まあ、それならいいわ。もし後ろからぐっさりとやられたら……」
「待て、何故そこで止める。そして、その笑顔はなんだ」
にこにこ、とこれ以上ないくらいに笑みを浮かべている高順。
何だか寒気がしてきた馬超。
そして、高順は告げる。
「足の小指を箪笥の角にぶつける刑100万回だったわ」
「痛い痛い」
馬超は本当にぶつけたかのように痛そうな顔をする。
そんな彼女に気を取り直し、高順は言葉を紡ぐ。
「あなたの槍には期待しているわ。錦馬超」
その言葉に馬超は獰猛な笑みを浮かべた。
「いいぜ。存分に期待しとけ」
うん、と満面の笑みで頷く高順はそのまま調子に乗る。
具体的に言えば、馬岱から聞かされていた馬超の面白いリアクションを見る為に。
「で、翠ってかっこよくて可愛いよね」
「……なななな!?」
馬超はがたっと椅子を倒して立ち上がる。
その顔は真っ赤。
「なんというか、抱きしめてあげたいし、抱きしめられたいような」
「ばっ馬鹿言うなよ!? 私よりお前の方が綺麗だろ!」
「あら、私は綺麗とは言ってないけども。かっこよいと可愛いは綺麗とは違うわ」
高順のその言葉は馬超に聞こえているのかいないのか。
彼女は顔を真っ赤にし、視線があっちこっちを彷徨っている。
大混乱のようだ。
「わ、わたし! ちょっと用事があるから!」
そう言うなり猛烈な勢いで食堂から飛び出していこうとして壁にぶつかった。
幾ら頑丈な馬超といえど、タダで済む筈もなく、後ろに倒れてぴくぴくと全身を痙攣させている。
「……錦馬超は芸人なのね」
そんなどうでもいいことを呟きつつ、高順は椅子から立ち上がり、馬超の傍へと歩み寄り、容態を確認。
馬超は完全に伸びてるようだ。
からかい半分、本気半分であった高順は放って置くわけにもいかないので、馬超を背負って彼女の部屋へと向かった。
ただ寝台に寝かせるだけでは面白くない。
そう考えた高順は寝台に寝かせ、さらに馬超の頭を膝に乗せる。
そして、その顔を存分に見る。
「しかし、さすが蒲公英というか……」
高順が馬超と1対1で話すということをどこからか嗅ぎつけた馬岱。
彼女が高順に吹き込んだことは馬超に可愛いとかそういうこと言うと面白いことになる、というもの。
それを実行した結果は高順としては中々に満足のいくものであった。
やられた馬超としてはたまったものではないが、色々な意味で関係が深まったのは言うまでもない。
「……いつの間にか寝てる」
膝から聞こえてくる寝息。
穏やかな表情だ。
何だかその表情を見ていると高順は穏やかな気持ちになってしまった。
優しくその頬を撫でてみれば気持ち良いのか、それともくすぐったいのか、顔を少し動かす。
西涼の馬超といえば馬騰と共に羌族にもその名が広まっている歴戦の戦士。
歳は今の高順と同じ13歳程度の筈だが、高順と同じくらいに身長が高い。
見た目だけみれば17、8歳程度に見える。
そんな若さで勇名が広がる馬超が自分の前で無防備な様をさらしているとなると、中々に高順としてはくるものがあった。
彼女は馬超の手を掴み、まじまじと見つめてみる。
普通の女の子の手だ。
ゴツゴツとしてもいなければ豆だらけでもない。
この綺麗な手は何万……は言い過ぎだが、それでも多くの命を奪い、血に染めているとは到底思えなかった。
「ん……」
その高順の行動がきっかけとなったのか、馬超が僅かに身動ぎした。
そして、ゆっくりと瞼を開ける。
その視線は少し彷徨った後に高順の顔を捉えた。
「――!」
変化は劇的であった。
馬超はすぐさま逃れるよう横へと転がり床へと落ちた。
「……私が言うのも何だけど、もうちょっと突発的なことに対して冷静に対処した方がいいと思う」
「自分で言うのも何だけど、私もそう思う……」
あいたたた、と後頭部を押さえつつ立ち上がる馬超。
「で、彩。私は可愛くはない」
「翠は可愛い」
真剣な顔で言われたが為に馬超は再び顔を真っ赤にし、一歩後ずさる。
「ど、どこが可愛いか言ってみろよ!」
「髪の先から足の先まで全部」
高順がそう答えれば馬超は奇声を発して飛び上がる。
面白いなぁ、と高順は思いつつ。
「さて、私はそろそろ行くわ」
そう言い、彼女は寝台から立ち上がる。
「い、行くって?」
まだ顔が赤い馬超の問い。
「夏侯元譲と戦う約束をしてるのよ」
高順はどちらかといえば頭脳労働派ではあるが、自らの鍛錬にも手を抜いていない。
もっとも、華雄が傍にいることから例え高順が嫌がっても、無理矢理に手合わせさせられるのだが……
それはさておき、高順は陳留に至るまでに陳宮を除く面々と戦闘を重ねており、中々の腕前となっている。
呂布、馬騰、馬超といった面々には敵わないものの、馬岱には勝ち、華雄と互角程度だ。
こうしてみれば上から4番目辺りだが、上位3人がずば抜けているのでこれはしょうがない。
夏侯惇との手合わせと聞き、馬超の表情が変わった。
女の子のそれから、錦馬超と呼ばれる猛将のそれへと。
「私もついて行こう」
城の裏庭にある屋外練兵場。
その一角で夏侯惇は準備運動をしていた。
少数の警護兵や親衛隊を除けば、常備軍としての兵士はいない。
それ故に広い練兵場には夏侯惇と模擬戦の見物客しかおらず、静けさに満ちていた。
その模擬戦の見物客とは言うまでもなく、この人であった。
「華琳様、我が武を存分に拝見ください」
2人しかいないが故に夏侯惇が真名で呼ぶ。
そんな彼女に微笑みつつ、やってくる高順に胸を踊らせる。
個人の武勇としては高順はそれほどでもない、と曹操は判断している。
彼女が最も評価するのは明らかな負け戦を勝ち戦にひっくり返す程の粘り強さ、さらに敵方であった馬一族を配下に引き入れてしまう、その懐の広さ。
曹操は客将として迎えて以来、夏侯姉妹は無論のこと、親衛隊や警護兵にも高順について執拗とも言えるほどにその様子を聞いている。
味方となればこれ以上ない程に頼もしいが、敵となればこれほどに厄介な輩もいない、というのが曹操が下した高順への評価。
今、引き込めば色々なところから目をつけられるが、是非とも欲しい……というのが曹操の偽らざる本音。
「きたな」
夏侯惇の言葉に曹操は思考から舞い戻る。
視線を出入り口へと向ければそこには剣を持った高順と自らの得物である十文字槍の銀閃を持っている馬超の姿が。
面白いことになった、と曹操は口元を僅かに歪ませる。
夏侯惇から聞いている。
彼女をしても呂布、馬騰、馬超には敵わない、と。
だが、実際に曹操はその場を見たことはない。
ならばこそ、錦馬超と呼ばれる馬超の戦いも見られるかもしれない、と思ったのだ。
しかし、馬超は高順からそそくさと距離を取った。
あくまで自分はおまけである、と行動で示した形だ。
曹操も見れれば儲けもの程度に思っていたので、さほど気にすることもない。
「高順、今日こそ決着をつけよう」
そう言い、夏侯惇はその剣先を高順へと向ける。
「敗北はあなたに与えよう」
そう返し、高順は鞘から剣を抜く。
「……高順、あなたは自分の得物がないの?」
曹操は不思議に思い、問いかける。
高順が持っていた剣は城内の武器庫に置いてあるものと全く同じだ。
「良い得物があれば最良ですが、いつもそれが手元にあるとは限りません」
高順の物言いに曹操は感心してしまう。
そんな彼女を横目に高順は夏侯惇へと剣を向けた。
その剣は相手の得物である七星餓狼と比べたらかなり見劣りする普通の剣であった。
それにも関わらず、夏侯惇の闘志はいささかの衰えもない。
彼女はこれまで数回、高順とやりあっている。
だが、その全てが日暮れまで戦っても勝負がつかなかった。
過去の勝負においても、高順は武器庫にあったものを適当に持ってきて使っている。
得物に差が出るならば、疾うの昔に夏侯惇は高順を打ち倒していなければおかしいのだ。
「参る」
短く夏侯惇が告げた。
瞬間、彼女は一息に前へと駆け、横薙ぎに高順を切り裂かんとする。
それを読んでいたとばかりに高順はその場でしゃがみ、足払いを仕掛けるが、夏侯惇はすぐさま後ろへと飛び退き、再び前へ。
上段からの振り下ろしに高順は半歩横へ移動するだけで回避し、剣を突く。
正確に喉目掛けて突き出されたその一撃を顔を傾けることで回避し、夏侯惇は攻め続ける。
高順は回避に専念する。
彼女も馬鹿力だが、夏侯惇はそれ以上の馬鹿力だ。
それに加えてその得物、七星餓狼は並の剣なら斬ってしまう程。
まともにやって勝てる道理はなく、夏侯惇と高順が戦うとき――否、高順が雑兵以外の者と戦うときは常にこのような形となる。
「馬超、あなたはどう見る?」
曹操は同じ見物客である馬超に問いかける。
「彩……高順は粘りに粘って相手の集中が乱れる一瞬の隙を突く。その為なら1刻だろうが2刻だろうが戦い続ける。勿論、雑兵相手ならそんなことせずに力でねじ伏せるけど」
「でしょうね。彼女はいつも回避を?」
その問いに馬超は頷く。
「鍛冶屋に頼んでいい得物を作ってもらおうってよく言ったんだが、異民族の私にそうしてくれるとは思えないってさ。あいつもそういう得物を持てば回避一辺倒だけじゃなく、受けることもできるんだが……」
なるほど、と曹操は頷きつつ、勝負の行方を見守る。
長丁場になりそうだが、彼女はしっかりと見るつもりであった。
剣が空気を斬り裂く音が響く。
試合開始から既に1刻。
未だに勝負はつかず、攻める夏侯惇の隙を突き、偶に高順が反撃する。
立場は変わらず、これからも変わることはない……それは明白であった。
模擬戦を見るために無理矢理に作った時間とはいえ、あまり遅くなるのも曹操としては拙い。
彼女は認めざるをえない。
高順は自らの配下である猛将、夏侯惇と同程度の武力を誇っている、と。
曹操は高順の武勇はそれほどでもない、と判断した自らを恥じつつ、未だ戦う2人に告げる。
「そこまでよ」
曹操の言葉に高順と夏侯惇は止まった。
「両者ご苦労。中々に見応えのある試合だったわ」
そう言いつつ、彼女は立ち上がる。
「孟徳様、私はまだ戦えます」
そう言う夏侯惇だが、息が荒い。
対する高順も肩で息をする有様。
とはいえ、ただで引かないことを知っている曹操は夏侯惇に告げる。
「夏侯惇、よくぞこの私にしっかりと高順の武とあなたの武を見せてくれた。ゆっくり休んで頂戴」
そう言われては夏侯惇といえど、引き下がらざるをえない。
「さて……高順」
名を呼びつつ、曹操はまっすぐに高順の瞳を見据える。
「一つ、聞きたいことがあるわ。嘘偽りなく答えて」
「何なりと」
「あなたはその力を持って何をする?」
びりびりとその場にいた者達の肌が泡立った。
目の前のたった一人の少女から出される圧倒的な威圧感。
呂布や馬騰、馬超のそれとも違うもの。
それは王の気迫とでもいうべきもの。
「私にとって都合の良い未来を招き寄せる。それだけよ」
引かぬとばかりに高順は礼儀をかなぐり捨て、毅然とした態度で告げた。
「その未来とは何か?」
「1000年先まで続く恒久的平和」
面白い、と曹操は口元を吊り上げる。
「その平和とはどのようなものか?」
「周辺諸国と同盟を結び、内政及び民衆の育成に努めること」
「民衆の育成?」
初めて……そう、初めて曹操は不意を突かれた。
内政に努める、というならば誰でも思いつくことだが、民衆の育成というのは彼女をしても想像の外であった。
「物質的に豊かになればなるほどに精神的に貧しくなっていく。金の為に人を殺し、金の為に倫理を踏みにじり、閉塞感が社会全体に蔓延していく。正直者が馬鹿を見る世の中となってはならない」
高順はそう言い放った。
それは彼女だからこそ言える言葉。
21世紀の日本は平和なようでまったく平和ではない。
自殺者が年間3万人も出る社会のどこが平和だというのか。
「職場で、私塾で立場が弱いものに対する陰湿な私刑。それらは全て精神的に幼いからこそ起こりえること。自分にされて嫌なことはやらない。他人にはできるだけ優しくする。その2つが発展と共にできなくなっていく」
曹操は言葉を挟めない。
高順の異様な迫力。
それに気圧されていた。
「様々な書物を読み、その知識を試験するだけでは駄目だ。他者と議論を交わし、他者の意見を自分の糧としていく。そして、自分の違う意見の者を一方的に糾弾するだけでなく、そういう意見もあるのだ、と認めなくてはならない。健全な愛国心を養い、老若男女、身分を問わず他者の意見をしっかりと聞き、自ら考え行動する。それができるようになることこそが、民衆の育成に繋がると私は信じている」
まっすぐに曹操の瞳を見据え、高順は告げた。
「……私は目の前の貧しさを解消することに躍起になり、見えない貧しさを放置するところだった」
曹操は静かに言葉を紡ぐ。
そして、彼女はゆっくりと高順へ頭を下げる。
「どうか、私のところへ来て欲しい。私にはあなたが必要だわ」
その様子に夏侯惇は思わず唾を飲み込んだ。
彼女は主が誰かに頭を下げるなんてところを見たことがなかった。
頭脳明晰とは残念ながら言えない夏侯惇だが、それでも高順の話は大陸を見回しても、彼女しか思いつかないだろうことは予想がついた。
なぜなら曹孟徳が思いつかなかったから。
夏侯惇にとってはそれだけで事足りる。
「彩……」
馬超が困惑気味に名を呼ぶ。
彼女からすれば模擬戦を見に来たのに何だか予想外の大事になってしまったのだ。
そうなるのも仕方がない。
そして、高順は高順で苦渋の選択であった。
天下を取る、と言い、賈詡もまた最初から負け犬根性でいくのは許さない、と言っていた。
高順には自分を信じてついてきてくれる彼女達を裏切ることはできない。
曹孟徳に仕えたい、とかつて賈詡に語ったように、高順は三国志の登場人物で一番心惹かれたのが曹操だ。
ずば抜けた人というところではなく、その極めて人間臭いところに。
官渡の戦いなどの一大決戦のときには弱気になったところを荀彧や郭嘉に尻を蹴られながらどうにか踏ん張ったり、父親を殺されて我を忘れて坊主憎けりゃ袈裟までもと大虐殺したり。
完璧超人ではない、聞いていて飽きない曹操の逸話。
自然と目には涙が溜まり始めるが、それに構わず高順は断腸の思いで告げる。
「もし、あなたと私がもっと早くに出会っていたなら、きっと私はあなたを大陸の王にしたことでしょう」
夏侯惇はその遠回しな断りに文句を言おうとしたが、口を開くことはなかった。
高順があまりにも悲痛な表情であったからだ。
今にも泣きそうな顔でそう告げる彼女の心情は手に取るように分かる。
それだけに重い理由があるのだ、と夏侯惇は悟った。
曹操はゆっくりと顔を上げた。
断られたにも関わらず、その顔には不敵な笑みが。
「私は欲しいと思ったものは必ず手に入れる。高順、あなたが最終的に私の下に来るのは天命よ」
そう言いつつ、彼女はゆっくりと高順の頬へと手をやり、垂れた涙の一滴を拭う。
「孟徳殿、私は私が最も信頼する軍師に負け犬根性でいくのは許さない、と言われております」
ほう、と曹操は楽しそうに笑う。
「私はあなたの軍勢を散々に打ち破り、もう勘弁して欲しいと泣きついてきたら軍門に下りましょう……早い話が、あなたが泣くまで攻撃をやめない」
「今ここで泣いちゃおうかしら?」
がくっと高順も夏侯惇も馬超も曹操のお茶目な攻撃に項垂れる。
先ほどまであった厳粛な空気はどこへやら。
「も、孟徳様ぁ……」
勘弁してください、と言いたげな夏侯惇の声。
「冗談よ、冗談。ともあれ高順。私の真名をあなたに受け取って欲しい」
一転、真摯な表情で告げる曹操。
「我が真名は華琳。好きに呼ぶといいわ」
「じゃあ華琳」
そう言われた高順は躊躇いなく呼び捨てにしてみた。
先ほどのお茶目な攻撃への仕返しも兼ねている。
神聖な名である真名でそういうことをするのは問題のある行為なのだが、曹操は好きに呼ぶといいと言った手前、文句を言うことはできない。
そして、困ったことに曹操はこういう度胸のある輩は大好きであった。
夏侯惇も馬超も目を丸くするが、曹操は大いに笑う。
そんな曹操に高順は親近感を抱きつつ、告げる。
「私の真名は彩」
「さっちゃんと呼ぶわね」
さりげない曹操からの仕返しに高順は思わず唸る。
曹操はニヤニヤと笑みを浮かべ、高順の様子を窺っている。
そんな彼女に高順は自らの知識にある曹操の人物像と重なる。
曹操は私的な場ではユーモア溢れる人物であった、と。
ともあれ、このまま自分の呼び名がそれで固定されるのは高順としても勘弁して欲しい。
故に彼女に残された選択肢は唯一つ。
「参った。降参。だからさっちゃんはやめて」
両手を上げる高順によろしい、と鷹揚に頷く曹操。
「さて、私はそろそろ仕事に戻るわ」
そう言い、手をひらひらさせて曹操は練兵場を後にした。
そして、残された面々のうち最初に口を開いたのは夏侯惇であった。
「負けんぞ」
「……へ?」
思わず間の抜けた声を出す高順。
「華琳様の1番はこの夏侯元譲であるっ!」
叫ぶ夏侯惇。
飛んでいるカラスがアホーと鳴く。
「……ちょっと何言ってるかわかんないっすね」
思わずそう返す高順。
「というかだな……私は模擬戦を見に来ただけなのに、何だかとんでもない場面を目撃したようでならないんだが……」
頬をぽりぽりとかく馬超。
ある意味、彼女と夏侯惇は歴史の目撃者であった。
その中で唯一、陳宮を曹操がちょうどいいと小間使い兼文官見習いとして使っていた。
そうなったのも、人手が足りない、と曹操は言ったが、陳宮を除けばどいつもこいつも武官である、と分かっていたが故だ。
彼女らは確かに事務仕事もできるかもしれないが、それでも政ができるとは到底曹操には思えなかった。
そして、その武官は賊が出てくれないと働かせる場所がない。
平時において武官の活躍の場所といえば、兵の調練や警邏くらいなものであるが、常備軍という構想こそあったものの、曹操は財政上の理由からそれをまだ実施していない。
故に賊が現れたらその都度、募兵して適当に訓練した後に武官が率いる、という他の諸侯と同じような体制であった。
強いて他と違うところを上げるならば親衛隊の存在だ。
真っ黒な鎧で統一されたその部隊は曹操の趣味と実益を兼ねた部隊であり、隊員は全員女の子である。
ともあれ、そんな隊を客将に任せるわけにもいかない。
そんなわけで残った仕事は警邏となるわけだが、何分、陳宮と呂布以外は訳ありである。
高順と華雄が警邏なんぞした日には住民達が恐慌状態に陥り、馬騰達は馬騰達で色々とつつかれたくない過去がある。
陳宮は曹操自らが使っている。
となれば呂布になるが……色々な意味で不安になった曹操は何も言わなかった。
無論、給料もそれに応じて結構低いのだが、元々路銀には苦労していなかった面々だ。
そのことについては文句はない。
そんなわけで高順達は暇をしているのである。
故に高順は彼女と関係を深めようと暇を見つけて馬超をお茶に誘うことにした。
最近加入した呂布を除けば、最も関係が浅いのが彼女であったからだ。
「いやー悪いなー」
そう言いつつ、ばくばくと点心を食べる馬超。
城内にある食堂なのだが、格安ということもあってよく食べる。
勿論、高順のおごりである。
「で、翠。今日、誘ったのは他でもないんだけど」
「んー?」
もぐもぐ馬超。
「ほら、私とあなたってあんまりお話したことなかったじゃない?」
「そーいえばそーだな」
傍にあったお茶をがぶ飲み。
それで一息ついたのか、馬超は満足気な顔だ。
「まあ、ぶっちゃけて聞くけど……私のこと、嫌い?」
「へ?」
唐突な問いに馬超は鳩が豆鉄砲を食らったような顔となる。
そんな彼女に高順はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「馬騰を負かしたこと」
「んー……別に私はどうとも思わないけどなぁ」
そう言いつつ、ガシガシと馬超は頭をかく。
「ホントに?」
「ホント。そりゃ、うちの母ちゃんが負けるとは思ってもみなかったけどさ、勝負は時の運とも言うし」
うんうん、と頷く馬超。
そして、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべ、告げる。
「私個人としては今の生活が結構楽しいんだぜ? 西涼にいた頃も楽しかったけど、何つーか、こう、広い世界を見て回れる喜びってやつ?」
それに、と馬超は続ける。
「私だって武人の端くれだから名を上げたいし、虐げられている民とかそういうのを見捨てることもできない。だから、彩の例の連中を打ち倒すっていうのに協力したいし、お前が天下取るっていうなら協力するよ。そうすりゃ私の名も勝手に上がる」
どうだ、と得意げな顔の馬超に高順は自然と笑みを浮かべてしまう。
「まあ、それならいいわ。もし後ろからぐっさりとやられたら……」
「待て、何故そこで止める。そして、その笑顔はなんだ」
にこにこ、とこれ以上ないくらいに笑みを浮かべている高順。
何だか寒気がしてきた馬超。
そして、高順は告げる。
「足の小指を箪笥の角にぶつける刑100万回だったわ」
「痛い痛い」
馬超は本当にぶつけたかのように痛そうな顔をする。
そんな彼女に気を取り直し、高順は言葉を紡ぐ。
「あなたの槍には期待しているわ。錦馬超」
その言葉に馬超は獰猛な笑みを浮かべた。
「いいぜ。存分に期待しとけ」
うん、と満面の笑みで頷く高順はそのまま調子に乗る。
具体的に言えば、馬岱から聞かされていた馬超の面白いリアクションを見る為に。
「で、翠ってかっこよくて可愛いよね」
「……なななな!?」
馬超はがたっと椅子を倒して立ち上がる。
その顔は真っ赤。
「なんというか、抱きしめてあげたいし、抱きしめられたいような」
「ばっ馬鹿言うなよ!? 私よりお前の方が綺麗だろ!」
「あら、私は綺麗とは言ってないけども。かっこよいと可愛いは綺麗とは違うわ」
高順のその言葉は馬超に聞こえているのかいないのか。
彼女は顔を真っ赤にし、視線があっちこっちを彷徨っている。
大混乱のようだ。
「わ、わたし! ちょっと用事があるから!」
そう言うなり猛烈な勢いで食堂から飛び出していこうとして壁にぶつかった。
幾ら頑丈な馬超といえど、タダで済む筈もなく、後ろに倒れてぴくぴくと全身を痙攣させている。
「……錦馬超は芸人なのね」
そんなどうでもいいことを呟きつつ、高順は椅子から立ち上がり、馬超の傍へと歩み寄り、容態を確認。
馬超は完全に伸びてるようだ。
からかい半分、本気半分であった高順は放って置くわけにもいかないので、馬超を背負って彼女の部屋へと向かった。
ただ寝台に寝かせるだけでは面白くない。
そう考えた高順は寝台に寝かせ、さらに馬超の頭を膝に乗せる。
そして、その顔を存分に見る。
「しかし、さすが蒲公英というか……」
高順が馬超と1対1で話すということをどこからか嗅ぎつけた馬岱。
彼女が高順に吹き込んだことは馬超に可愛いとかそういうこと言うと面白いことになる、というもの。
それを実行した結果は高順としては中々に満足のいくものであった。
やられた馬超としてはたまったものではないが、色々な意味で関係が深まったのは言うまでもない。
「……いつの間にか寝てる」
膝から聞こえてくる寝息。
穏やかな表情だ。
何だかその表情を見ていると高順は穏やかな気持ちになってしまった。
優しくその頬を撫でてみれば気持ち良いのか、それともくすぐったいのか、顔を少し動かす。
西涼の馬超といえば馬騰と共に羌族にもその名が広まっている歴戦の戦士。
歳は今の高順と同じ13歳程度の筈だが、高順と同じくらいに身長が高い。
見た目だけみれば17、8歳程度に見える。
そんな若さで勇名が広がる馬超が自分の前で無防備な様をさらしているとなると、中々に高順としてはくるものがあった。
彼女は馬超の手を掴み、まじまじと見つめてみる。
普通の女の子の手だ。
ゴツゴツとしてもいなければ豆だらけでもない。
この綺麗な手は何万……は言い過ぎだが、それでも多くの命を奪い、血に染めているとは到底思えなかった。
「ん……」
その高順の行動がきっかけとなったのか、馬超が僅かに身動ぎした。
そして、ゆっくりと瞼を開ける。
その視線は少し彷徨った後に高順の顔を捉えた。
「――!」
変化は劇的であった。
馬超はすぐさま逃れるよう横へと転がり床へと落ちた。
「……私が言うのも何だけど、もうちょっと突発的なことに対して冷静に対処した方がいいと思う」
「自分で言うのも何だけど、私もそう思う……」
あいたたた、と後頭部を押さえつつ立ち上がる馬超。
「で、彩。私は可愛くはない」
「翠は可愛い」
真剣な顔で言われたが為に馬超は再び顔を真っ赤にし、一歩後ずさる。
「ど、どこが可愛いか言ってみろよ!」
「髪の先から足の先まで全部」
高順がそう答えれば馬超は奇声を発して飛び上がる。
面白いなぁ、と高順は思いつつ。
「さて、私はそろそろ行くわ」
そう言い、彼女は寝台から立ち上がる。
「い、行くって?」
まだ顔が赤い馬超の問い。
「夏侯元譲と戦う約束をしてるのよ」
高順はどちらかといえば頭脳労働派ではあるが、自らの鍛錬にも手を抜いていない。
もっとも、華雄が傍にいることから例え高順が嫌がっても、無理矢理に手合わせさせられるのだが……
それはさておき、高順は陳留に至るまでに陳宮を除く面々と戦闘を重ねており、中々の腕前となっている。
呂布、馬騰、馬超といった面々には敵わないものの、馬岱には勝ち、華雄と互角程度だ。
こうしてみれば上から4番目辺りだが、上位3人がずば抜けているのでこれはしょうがない。
夏侯惇との手合わせと聞き、馬超の表情が変わった。
女の子のそれから、錦馬超と呼ばれる猛将のそれへと。
「私もついて行こう」
城の裏庭にある屋外練兵場。
その一角で夏侯惇は準備運動をしていた。
少数の警護兵や親衛隊を除けば、常備軍としての兵士はいない。
それ故に広い練兵場には夏侯惇と模擬戦の見物客しかおらず、静けさに満ちていた。
その模擬戦の見物客とは言うまでもなく、この人であった。
「華琳様、我が武を存分に拝見ください」
2人しかいないが故に夏侯惇が真名で呼ぶ。
そんな彼女に微笑みつつ、やってくる高順に胸を踊らせる。
個人の武勇としては高順はそれほどでもない、と曹操は判断している。
彼女が最も評価するのは明らかな負け戦を勝ち戦にひっくり返す程の粘り強さ、さらに敵方であった馬一族を配下に引き入れてしまう、その懐の広さ。
曹操は客将として迎えて以来、夏侯姉妹は無論のこと、親衛隊や警護兵にも高順について執拗とも言えるほどにその様子を聞いている。
味方となればこれ以上ない程に頼もしいが、敵となればこれほどに厄介な輩もいない、というのが曹操が下した高順への評価。
今、引き込めば色々なところから目をつけられるが、是非とも欲しい……というのが曹操の偽らざる本音。
「きたな」
夏侯惇の言葉に曹操は思考から舞い戻る。
視線を出入り口へと向ければそこには剣を持った高順と自らの得物である十文字槍の銀閃を持っている馬超の姿が。
面白いことになった、と曹操は口元を僅かに歪ませる。
夏侯惇から聞いている。
彼女をしても呂布、馬騰、馬超には敵わない、と。
だが、実際に曹操はその場を見たことはない。
ならばこそ、錦馬超と呼ばれる馬超の戦いも見られるかもしれない、と思ったのだ。
しかし、馬超は高順からそそくさと距離を取った。
あくまで自分はおまけである、と行動で示した形だ。
曹操も見れれば儲けもの程度に思っていたので、さほど気にすることもない。
「高順、今日こそ決着をつけよう」
そう言い、夏侯惇はその剣先を高順へと向ける。
「敗北はあなたに与えよう」
そう返し、高順は鞘から剣を抜く。
「……高順、あなたは自分の得物がないの?」
曹操は不思議に思い、問いかける。
高順が持っていた剣は城内の武器庫に置いてあるものと全く同じだ。
「良い得物があれば最良ですが、いつもそれが手元にあるとは限りません」
高順の物言いに曹操は感心してしまう。
そんな彼女を横目に高順は夏侯惇へと剣を向けた。
その剣は相手の得物である七星餓狼と比べたらかなり見劣りする普通の剣であった。
それにも関わらず、夏侯惇の闘志はいささかの衰えもない。
彼女はこれまで数回、高順とやりあっている。
だが、その全てが日暮れまで戦っても勝負がつかなかった。
過去の勝負においても、高順は武器庫にあったものを適当に持ってきて使っている。
得物に差が出るならば、疾うの昔に夏侯惇は高順を打ち倒していなければおかしいのだ。
「参る」
短く夏侯惇が告げた。
瞬間、彼女は一息に前へと駆け、横薙ぎに高順を切り裂かんとする。
それを読んでいたとばかりに高順はその場でしゃがみ、足払いを仕掛けるが、夏侯惇はすぐさま後ろへと飛び退き、再び前へ。
上段からの振り下ろしに高順は半歩横へ移動するだけで回避し、剣を突く。
正確に喉目掛けて突き出されたその一撃を顔を傾けることで回避し、夏侯惇は攻め続ける。
高順は回避に専念する。
彼女も馬鹿力だが、夏侯惇はそれ以上の馬鹿力だ。
それに加えてその得物、七星餓狼は並の剣なら斬ってしまう程。
まともにやって勝てる道理はなく、夏侯惇と高順が戦うとき――否、高順が雑兵以外の者と戦うときは常にこのような形となる。
「馬超、あなたはどう見る?」
曹操は同じ見物客である馬超に問いかける。
「彩……高順は粘りに粘って相手の集中が乱れる一瞬の隙を突く。その為なら1刻だろうが2刻だろうが戦い続ける。勿論、雑兵相手ならそんなことせずに力でねじ伏せるけど」
「でしょうね。彼女はいつも回避を?」
その問いに馬超は頷く。
「鍛冶屋に頼んでいい得物を作ってもらおうってよく言ったんだが、異民族の私にそうしてくれるとは思えないってさ。あいつもそういう得物を持てば回避一辺倒だけじゃなく、受けることもできるんだが……」
なるほど、と曹操は頷きつつ、勝負の行方を見守る。
長丁場になりそうだが、彼女はしっかりと見るつもりであった。
剣が空気を斬り裂く音が響く。
試合開始から既に1刻。
未だに勝負はつかず、攻める夏侯惇の隙を突き、偶に高順が反撃する。
立場は変わらず、これからも変わることはない……それは明白であった。
模擬戦を見るために無理矢理に作った時間とはいえ、あまり遅くなるのも曹操としては拙い。
彼女は認めざるをえない。
高順は自らの配下である猛将、夏侯惇と同程度の武力を誇っている、と。
曹操は高順の武勇はそれほどでもない、と判断した自らを恥じつつ、未だ戦う2人に告げる。
「そこまでよ」
曹操の言葉に高順と夏侯惇は止まった。
「両者ご苦労。中々に見応えのある試合だったわ」
そう言いつつ、彼女は立ち上がる。
「孟徳様、私はまだ戦えます」
そう言う夏侯惇だが、息が荒い。
対する高順も肩で息をする有様。
とはいえ、ただで引かないことを知っている曹操は夏侯惇に告げる。
「夏侯惇、よくぞこの私にしっかりと高順の武とあなたの武を見せてくれた。ゆっくり休んで頂戴」
そう言われては夏侯惇といえど、引き下がらざるをえない。
「さて……高順」
名を呼びつつ、曹操はまっすぐに高順の瞳を見据える。
「一つ、聞きたいことがあるわ。嘘偽りなく答えて」
「何なりと」
「あなたはその力を持って何をする?」
びりびりとその場にいた者達の肌が泡立った。
目の前のたった一人の少女から出される圧倒的な威圧感。
呂布や馬騰、馬超のそれとも違うもの。
それは王の気迫とでもいうべきもの。
「私にとって都合の良い未来を招き寄せる。それだけよ」
引かぬとばかりに高順は礼儀をかなぐり捨て、毅然とした態度で告げた。
「その未来とは何か?」
「1000年先まで続く恒久的平和」
面白い、と曹操は口元を吊り上げる。
「その平和とはどのようなものか?」
「周辺諸国と同盟を結び、内政及び民衆の育成に努めること」
「民衆の育成?」
初めて……そう、初めて曹操は不意を突かれた。
内政に努める、というならば誰でも思いつくことだが、民衆の育成というのは彼女をしても想像の外であった。
「物質的に豊かになればなるほどに精神的に貧しくなっていく。金の為に人を殺し、金の為に倫理を踏みにじり、閉塞感が社会全体に蔓延していく。正直者が馬鹿を見る世の中となってはならない」
高順はそう言い放った。
それは彼女だからこそ言える言葉。
21世紀の日本は平和なようでまったく平和ではない。
自殺者が年間3万人も出る社会のどこが平和だというのか。
「職場で、私塾で立場が弱いものに対する陰湿な私刑。それらは全て精神的に幼いからこそ起こりえること。自分にされて嫌なことはやらない。他人にはできるだけ優しくする。その2つが発展と共にできなくなっていく」
曹操は言葉を挟めない。
高順の異様な迫力。
それに気圧されていた。
「様々な書物を読み、その知識を試験するだけでは駄目だ。他者と議論を交わし、他者の意見を自分の糧としていく。そして、自分の違う意見の者を一方的に糾弾するだけでなく、そういう意見もあるのだ、と認めなくてはならない。健全な愛国心を養い、老若男女、身分を問わず他者の意見をしっかりと聞き、自ら考え行動する。それができるようになることこそが、民衆の育成に繋がると私は信じている」
まっすぐに曹操の瞳を見据え、高順は告げた。
「……私は目の前の貧しさを解消することに躍起になり、見えない貧しさを放置するところだった」
曹操は静かに言葉を紡ぐ。
そして、彼女はゆっくりと高順へ頭を下げる。
「どうか、私のところへ来て欲しい。私にはあなたが必要だわ」
その様子に夏侯惇は思わず唾を飲み込んだ。
彼女は主が誰かに頭を下げるなんてところを見たことがなかった。
頭脳明晰とは残念ながら言えない夏侯惇だが、それでも高順の話は大陸を見回しても、彼女しか思いつかないだろうことは予想がついた。
なぜなら曹孟徳が思いつかなかったから。
夏侯惇にとってはそれだけで事足りる。
「彩……」
馬超が困惑気味に名を呼ぶ。
彼女からすれば模擬戦を見に来たのに何だか予想外の大事になってしまったのだ。
そうなるのも仕方がない。
そして、高順は高順で苦渋の選択であった。
天下を取る、と言い、賈詡もまた最初から負け犬根性でいくのは許さない、と言っていた。
高順には自分を信じてついてきてくれる彼女達を裏切ることはできない。
曹孟徳に仕えたい、とかつて賈詡に語ったように、高順は三国志の登場人物で一番心惹かれたのが曹操だ。
ずば抜けた人というところではなく、その極めて人間臭いところに。
官渡の戦いなどの一大決戦のときには弱気になったところを荀彧や郭嘉に尻を蹴られながらどうにか踏ん張ったり、父親を殺されて我を忘れて坊主憎けりゃ袈裟までもと大虐殺したり。
完璧超人ではない、聞いていて飽きない曹操の逸話。
自然と目には涙が溜まり始めるが、それに構わず高順は断腸の思いで告げる。
「もし、あなたと私がもっと早くに出会っていたなら、きっと私はあなたを大陸の王にしたことでしょう」
夏侯惇はその遠回しな断りに文句を言おうとしたが、口を開くことはなかった。
高順があまりにも悲痛な表情であったからだ。
今にも泣きそうな顔でそう告げる彼女の心情は手に取るように分かる。
それだけに重い理由があるのだ、と夏侯惇は悟った。
曹操はゆっくりと顔を上げた。
断られたにも関わらず、その顔には不敵な笑みが。
「私は欲しいと思ったものは必ず手に入れる。高順、あなたが最終的に私の下に来るのは天命よ」
そう言いつつ、彼女はゆっくりと高順の頬へと手をやり、垂れた涙の一滴を拭う。
「孟徳殿、私は私が最も信頼する軍師に負け犬根性でいくのは許さない、と言われております」
ほう、と曹操は楽しそうに笑う。
「私はあなたの軍勢を散々に打ち破り、もう勘弁して欲しいと泣きついてきたら軍門に下りましょう……早い話が、あなたが泣くまで攻撃をやめない」
「今ここで泣いちゃおうかしら?」
がくっと高順も夏侯惇も馬超も曹操のお茶目な攻撃に項垂れる。
先ほどまであった厳粛な空気はどこへやら。
「も、孟徳様ぁ……」
勘弁してください、と言いたげな夏侯惇の声。
「冗談よ、冗談。ともあれ高順。私の真名をあなたに受け取って欲しい」
一転、真摯な表情で告げる曹操。
「我が真名は華琳。好きに呼ぶといいわ」
「じゃあ華琳」
そう言われた高順は躊躇いなく呼び捨てにしてみた。
先ほどのお茶目な攻撃への仕返しも兼ねている。
神聖な名である真名でそういうことをするのは問題のある行為なのだが、曹操は好きに呼ぶといいと言った手前、文句を言うことはできない。
そして、困ったことに曹操はこういう度胸のある輩は大好きであった。
夏侯惇も馬超も目を丸くするが、曹操は大いに笑う。
そんな曹操に高順は親近感を抱きつつ、告げる。
「私の真名は彩」
「さっちゃんと呼ぶわね」
さりげない曹操からの仕返しに高順は思わず唸る。
曹操はニヤニヤと笑みを浮かべ、高順の様子を窺っている。
そんな彼女に高順は自らの知識にある曹操の人物像と重なる。
曹操は私的な場ではユーモア溢れる人物であった、と。
ともあれ、このまま自分の呼び名がそれで固定されるのは高順としても勘弁して欲しい。
故に彼女に残された選択肢は唯一つ。
「参った。降参。だからさっちゃんはやめて」
両手を上げる高順によろしい、と鷹揚に頷く曹操。
「さて、私はそろそろ仕事に戻るわ」
そう言い、手をひらひらさせて曹操は練兵場を後にした。
そして、残された面々のうち最初に口を開いたのは夏侯惇であった。
「負けんぞ」
「……へ?」
思わず間の抜けた声を出す高順。
「華琳様の1番はこの夏侯元譲であるっ!」
叫ぶ夏侯惇。
飛んでいるカラスがアホーと鳴く。
「……ちょっと何言ってるかわかんないっすね」
思わずそう返す高順。
「というかだな……私は模擬戦を見に来ただけなのに、何だかとんでもない場面を目撃したようでならないんだが……」
頬をぽりぽりとかく馬超。
ある意味、彼女と夏侯惇は歴史の目撃者であった。