「青い空、白い砂浜、青い海、爽やかな風、そして背後には豊かな森や山々……」
天国は存在した、と彼女は思わず呟いた。
ここはアシュタロスが造った異空間。
正確には修行用の閉じた世界だ。
「……どこの漫画だ」
もう何でもありだなぁ、と遠い目の彼女。そして視線をアシュタロスへと移す。
彼は青空教室ともいうべきものの準備をしていた。
正確には黒板と椅子と机をハニワ兵なるハニワのようなものに持ってこさせ、自身はノートを見てブツブツと呟いている。
その近くには彼女の荷物である麻袋があった。
アシュタロスはどうやらどういう風に取り掛かるか考えているようだ。
「しかし、私、何か10年くらい物凄い痛みを感じてたらしいのに……」
数時間前にそれらは唐突に消え、彼女はこうしてぴんぴんしている。
むしろ、血を吸う前よりも調子がいいような気さえした。
アシュタロスが言うには飲ませてすぐにこの空間に自分を放り込んだとのこと。
そして、この空間の効果というものが……
「外の1時間がここでの1年ってなんて便利な勉強空間」
アシュタロスの技術に彼女はただ、驚くしかない。
しかも好きなときに外に出られるというのだから、こっちで1日過ごしても向こうでは数秒も経っていないことになる。
ちょっとした骨休めをするには最高の環境ともいえる。
「現代のサラリーマンや学生達が知ったら、絶対欲しがる……これ」
1時間の休憩で1年分おやすみができるのだ。その分、歳をとるがこのメリットは大きい。
「現代社会にこれがあればきっと皆心にゆとりができるんだろうなぁ」
のびのびとした世界がいいです、個人的に、と彼女は言葉を締めた。
「さて、早速だが君の名前を決めねばなるまい」
「……元の名前ではダメなの?」
「名前とは存在の証明だ。元の名前はあくまで人間の名前。君はもはや人間ではない。ならばこそ、新たな相応しいものを手に入れねば矛盾によって霊的な格が落ちる」
「でも男の人でも女みたいな名前の人っているけど?」
「桁が違う。所詮人間は個体では弱いものだ。だが、魔族は違う。その差だ」
そういうもんか、と思い彼女はどうしたものか、と考える。
いきなり自分の名前を決めろ、と言われてもそうそう思い浮かぶものではない。
「もう面倒だから素直にアシュタロスでいいんじゃない?」
「……いや、それはそれでアリだが、紛らわしくないか?」
最終的にはアシュタロスの名も継ぐことが決定している彼女だが、今はまだ時期ではない。
もっとも、この世界はあくまでサッちゃんやキーやん達からすれば時間軸的には過去であるのでこの世界にはアシュタロスという存在はまだいない。
別に彼女がアシュタロスを名乗ったとしても、その存在としての格から単なる同名の魔族と認識されるだけであり、矛盾が生じてどちらかが消滅するということはない。
「いいのいいの。どうせあなたの後を継いだら、今ここで考えた名前なんて意味などない……そうね、アシュタロスから何文字か抜き出して、アシュレイとでも呼べばいいじゃないの。仮に」
そうか、と頷き彼は彼女の意志を尊重することにした。
下手に妙な名前をつけられても、彼としては反応に困るというのもある。
「さて、早速勉強といこう。ある程度の魔力はできた。あとは適度に血を飲みつつ、座学と実践あるのみ」
「血液飲めば座学とか省けるんじゃ……」
「それでは駄目だ。それでは有機的に知識を活用できない。辞典を丸暗記したようなものだからな」
なるほど、と頷くと同時に1000年の勉強地獄に彼女は思わず十字を切った。
だが、キーやんが諦めてくださいと頭の中にささやいて彼女は涙目になった。
「……いや、確かに君の願いは分かっていた。分かっていたが……」
これはやりすぎではないかね、と彼は思わず問いかけた。
加速空間内でおよそ100年程経ち、血液の摂取量は日に日に増大するとともに魔力も増大。
また、この100年でそれなりに魔法の基礎などの必要なことを学んだ彼女に、使い魔作成のGOサインがついに出た。そして彼女は使い魔の作成を始めた。
しかし、それはアシュタロスの予想を裏切った。
通常、使い魔は素体があっても無くても作成に掛ける時間は僅か数時間だ。
魔族の、特に強い力を持った者が作る使い魔はたった数時間のお手軽なものでも、人間から見れば強力な力を持つ。
さて、魔王候補の彼女はアシュタロスに助言を求めつつ、初めての使い魔をつくるのに時間を掛けた。
というよりも、現在進行形で掛けていた。
「まだよ……もっともっと強く美しく……!」
彼女はそう呟きつつ、半径数十mはあろう巨大な使い魔作成魔法陣の中心で魔力を注ぎ込んでいる。
彼女は完全に魔族化している為、餓死することはないし、もちろん排泄の必要性もない。
当初こそ感じていた空腹感も既にない。食事はもはや単なる嗜好に成り下がっている。
故に何日間も何ヶ月間も何年間もぶっ通しでこういう作業ができる。
「……まだしばらく続きそうだな」
一応、彼の家庭教師期間の1000年というのは現実空間での1000年だ。
加速空間に換算すれば約876万年相当。
これだけあればどんなに彼女の飲み込みが悪くても大丈夫だ、と余裕を持った上での時間。
彼が教えてみたところ、彼女の飲み込みは悪くはない。
ならば数万年程度のロスは全く問題がない。
「ほどほどにしておきたまえ。2体目からが面倒臭くなる」
彼はそう忠告して、彼女のカリキュラムを考える作業に戻った。
876万年分のカリキュラム、大まかなものを決めるだけでも相当な暇潰しになるはずだ、と彼は信じて。
そして、それからさらに膨大な時間を費やし、彼女はついに使い魔を作り上げた。
その使い魔は……一言で言えばメイドであった。
彼女、アシュレイは高笑いをしている。
自身が初めて作りだした使い魔は彼女の前で一糸纏わぬ姿で頭を垂れ、跪いている。
「……いや、何というか凝り性というか……ある意味前衛的というか……」
横にいたアシュタロスは呆れたような感心したような、そんな顔だ。
何しろ、その使い魔の魔力がバカみたいに大きかった。
それこそ、現時点では主である彼女を超越する程に。
単純な話だ。
作成主である彼女は膨大な時間、自身の魔力を使い魔の性能の底上げの為に使用した。
その結果、使い魔は彼女以上の力を持ったというだけ。
だが、普通使い魔とは言ってしまえば召使いのようなものであり、そんな手間を掛けたりはしない。
さて、使い魔というのは主の影響を受ける。
性格や身体的特徴や考え方などなどと様々だ。
もちろん、このような影響が出ないやり方もあるが、そこはアシュタロスが初めての使い魔はそういったものを排除しないほうがいい、と助言したので、アシュレイは特に何も対策を行ってはいない。
そして、今回、彼女が作った使い魔は身体的特徴が現れていた。
髪は金色であり、瞳は翡翠のような色合いだが……彼女は両性具有であった。
「顔を上げなさい。あなたの名前を決めなくては」
アシュレイはそう呟き、数度頷く。
瞬間、彼女の頭を駆け巡る無数の名前。
その中から彼女は直感で選び取る。
「テレジアよ。あなたはテレジア」
その言葉に使い魔――テレジアは歓喜に満ちた表情を浮かべる。
使い魔は作成主から名前をもらうことにより、完全に作成主のものとなる。
名前の無い不完全な状態では消えてしまう。
そして、使い魔は当然のことながら主に対して無条件に好意的である。
どんな理不尽な命令でも好意的に解釈し、実行してしまうのだ。
しかし、アシュレイは知ってか知らずか、使い魔のテレジアを完全に自身に対して盲目にさせることを実行する。
彼女はテレジアの両頬を両手でもって優しく触る。
紅い瞳が交わり、数瞬の間――
「あなたの誕生を心より祝福するわ。生まれてきてありがとう」
アシュレイは微笑み、そう告げた。告げてしまった。
横で見ていたアシュタロスは「やっちまったな」と声を洩らしそうになった。
あんなことを使い魔にしてしまえば狂信的なまでの忠誠を使い魔は向けてくる。
ハッキリ言えば、いらなくなったときに処分に困るのだ。
しかし、それはあくまで彼の思考。
アシュレイとしては処分する気など微塵もなかった。
「さて、テレジア。私の名前を教えておくわ。今はアシュレイ、でも将来的にはアシュタロス。好きに呼ぶといい」
「アシュ様……」
ぽーっと潤んだ瞳で見つめるテレジアの口から零れ出た言葉。
まあいいか、と彼女は了承の意を込めて頷く。
「で、テレジア。あなたはまだ生まれたて。強くなりなさい。知識を蓄えなさい。私の役に立てるように」
テレジアはゆっくりと頷いた。
一方アシュタロスはそのやりとりに疑問を感じていた。
今は確かにアシュレイよりもテレジアが魔力の量は上だ。
だが、どう頑張っても最終的にはアシュレイが圧倒的なまでの強さを持つのだから、文字通り使い魔なんぞ召使としての能力しかいらない。
人間社会を裏から操るにしても、そこまでの戦闘力は必要ない。
そこまで考えて、アシュレイの単なる娯楽か何かだろう、と彼は結論づけた。
「で……君は使い魔を何体作れば気が済むのかね?」
アシュタロスは溜息混じりでアシュレイに尋ねた。
テレジアを作って、だいたい50年程はアシュレイはしっかりと勉学に励んでいた。
彼女と共にテレジアもまた勉学に励んでいた。
だが、アシュレイは総司令官は必要とか何とか言い出したのだ。
それはアシュタロスが自身の領地や40の軍団について説明をしたのがきっかけであった。
具体的には領地を始めとした財産はそのままアシュレイが受け継ぐのだが、軍団については今のアシュタロスを慕ってやってきた者や傭兵なども多いのでアシュレイがアシュタロスとなったときには一度解散となる……というわけである。
この世界には軍団も領地も無いが、別世界にはあるので補足的な感じでアシュタロスは触れた。
そこでアシュレイは魔王軍の総司令官は必要なのだ、と閃いたのであった。
最高司令官は言うまでもなくアシュレイだが、軍を取りまとめるトップとしての人物を彼女は欲しい、と判断した。
……もちろん、今の彼女に軍勢と呼べるような戦力は存在しない。
せいぜいがテレジアだ。
「今のところこんだけ」
やっぱり1人の作成に膨大な時間と魔力を費やして、彼女は2人の使い魔を作り上げた。
今回は自身の影響が出ないように対策を行いつつ。
そして、できあがった2人に対して彼女はテレジアと同じことをやらかしていた。
「シルヴィアとベアトリクス……ふふふ、これでいいのよ」
何だか満足そうな彼女にアシュタロスはやれやれ、と肩を竦める。
見目麗しい長身のシルヴィアと、ともすれば少年のようにも見える中性的な顔立ちのベアトリクス。
美しく長い銀髪をストレートに流しているシルヴィアに対して、その金髪を三つ編み団子にして後ろで纏めているベアトリクス――後者はテレジアと同じ髪型であった。
テレジアに三つ編み団子をさせたら予想以上に似合っており、もう1人とアシュレイが思った次第だ。
彼女の趣味がよく分かるチョイスである。
言うまでもないが、人型の使い魔を作るとき、その容姿は作成主が思うがままに決定づけることができる。
さて、そんなシルヴィアとベアトリクスに使い魔として先輩のテレジアはというと、特に何も感じてはいなかった。
アシュレイが思うがままにやればいい、というのがテレジアの考えだ。
使い魔として至極当然の思考である。
「シルヴィア、ベアトリクスの2人には私が作る軍勢を率いてもらうおうと思うの」
ほう、とアシュタロスは興味深げな視線をアシュレイに向ける。
彼女が自分の手勢について言及したのはこれが初めてであったからだ。
前々から作る、とは聞いていたが、より具体的にはアシュタロスは知らない。
「ベアトリクスは全軍の指揮官に、シルヴィアには近衛でも率いてもらおうかと」
「アシュ様」
ベアトリクスの声にアシュレイは首を傾げる。
「より強いものが精鋭である近衛を率いるべきです。私はそこのシルヴィアよりも強い」
こう言われてカチンとこない輩はいない。
シルヴィアはすかさず反論した。
「私の方がお前のような発育不良娘よりも強いに決まっている」
「な! この体はアシュ様がお決めになったものだ! 貴公はアシュ様のご意思を汚すと言うのか!」
食いかかるベアトリクスだが、シルヴィアは何処吹く風とばかりに受け流す。
出るところは出て、引っ込むべきところは引っ込んでいる理想的な体型であるシルヴィアと比べて、ベアトリクスの体は残念ながら、そこまで起伏にとんではいない。
「……どうでもいいけど、あなた達、生まれてまだ1週間も経ってないから、強いも弱いもないと思うの」
アシュレイの最もな言葉に2人共、何も言えなくなる。
「それにベアトリクス。私はあなたなら全ての軍団の指揮を委ねられると思うの」
主からそう言われてはベアトリクスは何も言えない。
「個人的にあなたがそういった大勢の軍団を纏めるのが見たいからなの」
その言葉にベアトリクスはその白い頬を赤く染めて顔を俯かせる。
そんな彼女の綺麗な金色の髪を弄びつつ、アシュレイは耳元で囁く。
「任せた」と。
「ああ、言い忘れたけど」
ベアトリクスの耳元から顔を離し、彼女はシルヴィアとベアトリクス、2人へ視線を交互にやりつつ告げる。
「2人共、武勇をあげなさい。何よりも強くなりなさい。そうしなくては私の格が落ちる」
アシュレイの考えは至極単純だ。
将来的に神魔に戦争を仕掛けるから、戦力はあればあるほどいい。
そして、自分の使い魔はこんなに凄いんだぞ、と自慢できるからだ。
……彼女が誰に自慢するかはわからないが。
ともあれ、主にそう言われて応えないのは使い魔ではない。
2人は重々しく頷いた。
「あ、2人とも得物はできるだけ剣を使いなさい。これ命令ね」
やっぱりヴィジュアルは大切よ、と彼女は呟く。
アシュレイ的には女の子が剣持って戦うのが心の琴線に激しく触れるのであった。
趣味丸出しだが、悪魔だから問題なかった。
天国は存在した、と彼女は思わず呟いた。
ここはアシュタロスが造った異空間。
正確には修行用の閉じた世界だ。
「……どこの漫画だ」
もう何でもありだなぁ、と遠い目の彼女。そして視線をアシュタロスへと移す。
彼は青空教室ともいうべきものの準備をしていた。
正確には黒板と椅子と机をハニワ兵なるハニワのようなものに持ってこさせ、自身はノートを見てブツブツと呟いている。
その近くには彼女の荷物である麻袋があった。
アシュタロスはどうやらどういう風に取り掛かるか考えているようだ。
「しかし、私、何か10年くらい物凄い痛みを感じてたらしいのに……」
数時間前にそれらは唐突に消え、彼女はこうしてぴんぴんしている。
むしろ、血を吸う前よりも調子がいいような気さえした。
アシュタロスが言うには飲ませてすぐにこの空間に自分を放り込んだとのこと。
そして、この空間の効果というものが……
「外の1時間がここでの1年ってなんて便利な勉強空間」
アシュタロスの技術に彼女はただ、驚くしかない。
しかも好きなときに外に出られるというのだから、こっちで1日過ごしても向こうでは数秒も経っていないことになる。
ちょっとした骨休めをするには最高の環境ともいえる。
「現代のサラリーマンや学生達が知ったら、絶対欲しがる……これ」
1時間の休憩で1年分おやすみができるのだ。その分、歳をとるがこのメリットは大きい。
「現代社会にこれがあればきっと皆心にゆとりができるんだろうなぁ」
のびのびとした世界がいいです、個人的に、と彼女は言葉を締めた。
「さて、早速だが君の名前を決めねばなるまい」
「……元の名前ではダメなの?」
「名前とは存在の証明だ。元の名前はあくまで人間の名前。君はもはや人間ではない。ならばこそ、新たな相応しいものを手に入れねば矛盾によって霊的な格が落ちる」
「でも男の人でも女みたいな名前の人っているけど?」
「桁が違う。所詮人間は個体では弱いものだ。だが、魔族は違う。その差だ」
そういうもんか、と思い彼女はどうしたものか、と考える。
いきなり自分の名前を決めろ、と言われてもそうそう思い浮かぶものではない。
「もう面倒だから素直にアシュタロスでいいんじゃない?」
「……いや、それはそれでアリだが、紛らわしくないか?」
最終的にはアシュタロスの名も継ぐことが決定している彼女だが、今はまだ時期ではない。
もっとも、この世界はあくまでサッちゃんやキーやん達からすれば時間軸的には過去であるのでこの世界にはアシュタロスという存在はまだいない。
別に彼女がアシュタロスを名乗ったとしても、その存在としての格から単なる同名の魔族と認識されるだけであり、矛盾が生じてどちらかが消滅するということはない。
「いいのいいの。どうせあなたの後を継いだら、今ここで考えた名前なんて意味などない……そうね、アシュタロスから何文字か抜き出して、アシュレイとでも呼べばいいじゃないの。仮に」
そうか、と頷き彼は彼女の意志を尊重することにした。
下手に妙な名前をつけられても、彼としては反応に困るというのもある。
「さて、早速勉強といこう。ある程度の魔力はできた。あとは適度に血を飲みつつ、座学と実践あるのみ」
「血液飲めば座学とか省けるんじゃ……」
「それでは駄目だ。それでは有機的に知識を活用できない。辞典を丸暗記したようなものだからな」
なるほど、と頷くと同時に1000年の勉強地獄に彼女は思わず十字を切った。
だが、キーやんが諦めてくださいと頭の中にささやいて彼女は涙目になった。
「……いや、確かに君の願いは分かっていた。分かっていたが……」
これはやりすぎではないかね、と彼は思わず問いかけた。
加速空間内でおよそ100年程経ち、血液の摂取量は日に日に増大するとともに魔力も増大。
また、この100年でそれなりに魔法の基礎などの必要なことを学んだ彼女に、使い魔作成のGOサインがついに出た。そして彼女は使い魔の作成を始めた。
しかし、それはアシュタロスの予想を裏切った。
通常、使い魔は素体があっても無くても作成に掛ける時間は僅か数時間だ。
魔族の、特に強い力を持った者が作る使い魔はたった数時間のお手軽なものでも、人間から見れば強力な力を持つ。
さて、魔王候補の彼女はアシュタロスに助言を求めつつ、初めての使い魔をつくるのに時間を掛けた。
というよりも、現在進行形で掛けていた。
「まだよ……もっともっと強く美しく……!」
彼女はそう呟きつつ、半径数十mはあろう巨大な使い魔作成魔法陣の中心で魔力を注ぎ込んでいる。
彼女は完全に魔族化している為、餓死することはないし、もちろん排泄の必要性もない。
当初こそ感じていた空腹感も既にない。食事はもはや単なる嗜好に成り下がっている。
故に何日間も何ヶ月間も何年間もぶっ通しでこういう作業ができる。
「……まだしばらく続きそうだな」
一応、彼の家庭教師期間の1000年というのは現実空間での1000年だ。
加速空間に換算すれば約876万年相当。
これだけあればどんなに彼女の飲み込みが悪くても大丈夫だ、と余裕を持った上での時間。
彼が教えてみたところ、彼女の飲み込みは悪くはない。
ならば数万年程度のロスは全く問題がない。
「ほどほどにしておきたまえ。2体目からが面倒臭くなる」
彼はそう忠告して、彼女のカリキュラムを考える作業に戻った。
876万年分のカリキュラム、大まかなものを決めるだけでも相当な暇潰しになるはずだ、と彼は信じて。
そして、それからさらに膨大な時間を費やし、彼女はついに使い魔を作り上げた。
その使い魔は……一言で言えばメイドであった。
彼女、アシュレイは高笑いをしている。
自身が初めて作りだした使い魔は彼女の前で一糸纏わぬ姿で頭を垂れ、跪いている。
「……いや、何というか凝り性というか……ある意味前衛的というか……」
横にいたアシュタロスは呆れたような感心したような、そんな顔だ。
何しろ、その使い魔の魔力がバカみたいに大きかった。
それこそ、現時点では主である彼女を超越する程に。
単純な話だ。
作成主である彼女は膨大な時間、自身の魔力を使い魔の性能の底上げの為に使用した。
その結果、使い魔は彼女以上の力を持ったというだけ。
だが、普通使い魔とは言ってしまえば召使いのようなものであり、そんな手間を掛けたりはしない。
さて、使い魔というのは主の影響を受ける。
性格や身体的特徴や考え方などなどと様々だ。
もちろん、このような影響が出ないやり方もあるが、そこはアシュタロスが初めての使い魔はそういったものを排除しないほうがいい、と助言したので、アシュレイは特に何も対策を行ってはいない。
そして、今回、彼女が作った使い魔は身体的特徴が現れていた。
髪は金色であり、瞳は翡翠のような色合いだが……彼女は両性具有であった。
「顔を上げなさい。あなたの名前を決めなくては」
アシュレイはそう呟き、数度頷く。
瞬間、彼女の頭を駆け巡る無数の名前。
その中から彼女は直感で選び取る。
「テレジアよ。あなたはテレジア」
その言葉に使い魔――テレジアは歓喜に満ちた表情を浮かべる。
使い魔は作成主から名前をもらうことにより、完全に作成主のものとなる。
名前の無い不完全な状態では消えてしまう。
そして、使い魔は当然のことながら主に対して無条件に好意的である。
どんな理不尽な命令でも好意的に解釈し、実行してしまうのだ。
しかし、アシュレイは知ってか知らずか、使い魔のテレジアを完全に自身に対して盲目にさせることを実行する。
彼女はテレジアの両頬を両手でもって優しく触る。
紅い瞳が交わり、数瞬の間――
「あなたの誕生を心より祝福するわ。生まれてきてありがとう」
アシュレイは微笑み、そう告げた。告げてしまった。
横で見ていたアシュタロスは「やっちまったな」と声を洩らしそうになった。
あんなことを使い魔にしてしまえば狂信的なまでの忠誠を使い魔は向けてくる。
ハッキリ言えば、いらなくなったときに処分に困るのだ。
しかし、それはあくまで彼の思考。
アシュレイとしては処分する気など微塵もなかった。
「さて、テレジア。私の名前を教えておくわ。今はアシュレイ、でも将来的にはアシュタロス。好きに呼ぶといい」
「アシュ様……」
ぽーっと潤んだ瞳で見つめるテレジアの口から零れ出た言葉。
まあいいか、と彼女は了承の意を込めて頷く。
「で、テレジア。あなたはまだ生まれたて。強くなりなさい。知識を蓄えなさい。私の役に立てるように」
テレジアはゆっくりと頷いた。
一方アシュタロスはそのやりとりに疑問を感じていた。
今は確かにアシュレイよりもテレジアが魔力の量は上だ。
だが、どう頑張っても最終的にはアシュレイが圧倒的なまでの強さを持つのだから、文字通り使い魔なんぞ召使としての能力しかいらない。
人間社会を裏から操るにしても、そこまでの戦闘力は必要ない。
そこまで考えて、アシュレイの単なる娯楽か何かだろう、と彼は結論づけた。
「で……君は使い魔を何体作れば気が済むのかね?」
アシュタロスは溜息混じりでアシュレイに尋ねた。
テレジアを作って、だいたい50年程はアシュレイはしっかりと勉学に励んでいた。
彼女と共にテレジアもまた勉学に励んでいた。
だが、アシュレイは総司令官は必要とか何とか言い出したのだ。
それはアシュタロスが自身の領地や40の軍団について説明をしたのがきっかけであった。
具体的には領地を始めとした財産はそのままアシュレイが受け継ぐのだが、軍団については今のアシュタロスを慕ってやってきた者や傭兵なども多いのでアシュレイがアシュタロスとなったときには一度解散となる……というわけである。
この世界には軍団も領地も無いが、別世界にはあるので補足的な感じでアシュタロスは触れた。
そこでアシュレイは魔王軍の総司令官は必要なのだ、と閃いたのであった。
最高司令官は言うまでもなくアシュレイだが、軍を取りまとめるトップとしての人物を彼女は欲しい、と判断した。
……もちろん、今の彼女に軍勢と呼べるような戦力は存在しない。
せいぜいがテレジアだ。
「今のところこんだけ」
やっぱり1人の作成に膨大な時間と魔力を費やして、彼女は2人の使い魔を作り上げた。
今回は自身の影響が出ないように対策を行いつつ。
そして、できあがった2人に対して彼女はテレジアと同じことをやらかしていた。
「シルヴィアとベアトリクス……ふふふ、これでいいのよ」
何だか満足そうな彼女にアシュタロスはやれやれ、と肩を竦める。
見目麗しい長身のシルヴィアと、ともすれば少年のようにも見える中性的な顔立ちのベアトリクス。
美しく長い銀髪をストレートに流しているシルヴィアに対して、その金髪を三つ編み団子にして後ろで纏めているベアトリクス――後者はテレジアと同じ髪型であった。
テレジアに三つ編み団子をさせたら予想以上に似合っており、もう1人とアシュレイが思った次第だ。
彼女の趣味がよく分かるチョイスである。
言うまでもないが、人型の使い魔を作るとき、その容姿は作成主が思うがままに決定づけることができる。
さて、そんなシルヴィアとベアトリクスに使い魔として先輩のテレジアはというと、特に何も感じてはいなかった。
アシュレイが思うがままにやればいい、というのがテレジアの考えだ。
使い魔として至極当然の思考である。
「シルヴィア、ベアトリクスの2人には私が作る軍勢を率いてもらうおうと思うの」
ほう、とアシュタロスは興味深げな視線をアシュレイに向ける。
彼女が自分の手勢について言及したのはこれが初めてであったからだ。
前々から作る、とは聞いていたが、より具体的にはアシュタロスは知らない。
「ベアトリクスは全軍の指揮官に、シルヴィアには近衛でも率いてもらおうかと」
「アシュ様」
ベアトリクスの声にアシュレイは首を傾げる。
「より強いものが精鋭である近衛を率いるべきです。私はそこのシルヴィアよりも強い」
こう言われてカチンとこない輩はいない。
シルヴィアはすかさず反論した。
「私の方がお前のような発育不良娘よりも強いに決まっている」
「な! この体はアシュ様がお決めになったものだ! 貴公はアシュ様のご意思を汚すと言うのか!」
食いかかるベアトリクスだが、シルヴィアは何処吹く風とばかりに受け流す。
出るところは出て、引っ込むべきところは引っ込んでいる理想的な体型であるシルヴィアと比べて、ベアトリクスの体は残念ながら、そこまで起伏にとんではいない。
「……どうでもいいけど、あなた達、生まれてまだ1週間も経ってないから、強いも弱いもないと思うの」
アシュレイの最もな言葉に2人共、何も言えなくなる。
「それにベアトリクス。私はあなたなら全ての軍団の指揮を委ねられると思うの」
主からそう言われてはベアトリクスは何も言えない。
「個人的にあなたがそういった大勢の軍団を纏めるのが見たいからなの」
その言葉にベアトリクスはその白い頬を赤く染めて顔を俯かせる。
そんな彼女の綺麗な金色の髪を弄びつつ、アシュレイは耳元で囁く。
「任せた」と。
「ああ、言い忘れたけど」
ベアトリクスの耳元から顔を離し、彼女はシルヴィアとベアトリクス、2人へ視線を交互にやりつつ告げる。
「2人共、武勇をあげなさい。何よりも強くなりなさい。そうしなくては私の格が落ちる」
アシュレイの考えは至極単純だ。
将来的に神魔に戦争を仕掛けるから、戦力はあればあるほどいい。
そして、自分の使い魔はこんなに凄いんだぞ、と自慢できるからだ。
……彼女が誰に自慢するかはわからないが。
ともあれ、主にそう言われて応えないのは使い魔ではない。
2人は重々しく頷いた。
「あ、2人とも得物はできるだけ剣を使いなさい。これ命令ね」
やっぱりヴィジュアルは大切よ、と彼女は呟く。
アシュレイ的には女の子が剣持って戦うのが心の琴線に激しく触れるのであった。
趣味丸出しだが、悪魔だから問題なかった。