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忠誠こそ彼女らの名誉

 袁紹は泣いていた。
 零れ落ちる涙はとめどなく、床へと滴り落ちる。
 たまらなくなったのか、その身を折ってしまう。
 彼女の前にいるのはただ賈詡1人。

 泣く袁紹を賈詡は高順の詩が予想以上の効果を発揮し、嬉しい誤算とばかりに内心ほくそ笑んでいた。
 袁家はまさしく漢王朝の忠臣であり、重臣の家系である。
 代々の当主は勿論、袁紹も漢あってこその袁家である、と重々承知している。
 故に宦官の専横に対抗する為に何進と手を結び、これを排除せん、と日々暗躍している。


 だからこその、高順の詩。


「これを……書いた方は……」

 涙を隠そうともせずに袁紹は顔を上げ、尋ねる。

「我が主です。そして、その詩の題名は維新」
「維新……詩経からですか……」

 袁紹は心底感心していた。
 まさか異民族の高順が知っているとは思いも寄らず、袁紹の中で高順への好感度は急上昇だ。
 この時代において、学問を修めるというのはそれだけで知識人であり、また上流階級の者と交流するには必須であった。

「主はその詩に共感できる者こそ真の志士と仰っておりました」

 賈詡はさらりとそう告げ、袁紹の心を煽る。
 実際に高順はそうは言っていないのだが、それらしいことは言っているので嘘は言っていない。

 袁紹はゆっくりとその詩を読み上げる。




 汨羅の淵に波騒ぎ 巫山の雲は乱れ飛ぶ 混濁の世に我立てば 義憤に燃えて血潮湧く
 権門上に傲れども 国を憂うる誠なし 宦官富を誇れども 社稷を思う心なし
 ああ人栄えて国滅ぶ 盲たる民世に踊る 治乱興亡夢に似て 世は一局の碁なりけり
 光和維新の春の空 正義に結ぶ丈夫が 胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花
 古びし死骸乗り越えて 雲漂揺の身は一つ 国を憂いて立つからは 丈夫の歌なからめや
 天の怒りか地の声か そもただならぬ響きあり 民永劫の眠りより 醒めよ御国の朝ぼらけ
 見よ九天の雲は垂れ 四海の波は雄叫びて 革新の時至りぬと吹くや 御国の夕嵐
 ああうらぶれし天地の 迷いの道を人はゆく 栄華を誇る塵の世に 誰が高楼の眺めぞや
 功名なにか夢の跡 消えざるものはただ誠 人生意気に感じては 成否を誰かあげつらう
 やめよ離騒の一悲曲 悲歌慷慨の日は去りぬ 我らが剣今こそは 廓清の血に踊るかな





 朗々と読み上げ、袁紹は再び感動に身を震わせつつ、口を開く。

「桜を用いたところが巧いと思いますわ。あまり人気の無い花ですけど、ぱっと花を咲かせた後、散っていく……その散り際の潔さ、儚さ……」

 先の詩を要約すれば、荒廃した国や飢える民を憂い、志士として、国の変革の為に死を覚悟して取り組む。
 それは漢の忠臣、袁紹の心をこれ以上ないほどにくすぐるもの。


 高順が聞いたらうまく繋ぎ合わせた三上卓に言ってくれ、と答えるだろう。
 元々これは昭和維新の歌であり、これを作った三上卓は土井晩翠や大川周明の詩集から抜粋し、繋ぎ合わせただけだったりする。
 現代風に言えば有名歌手の歌からいい歌詞をパクって繋ぎ合わせてそれを新曲として発表したに過ぎない。

 とはいえ、まさか2世紀初頭にそういった元ネタとなった人物達がいるわけもなく、また著作権でうるさい某団体が時空を超えて追いかけてくるなんてこともない。
 というよりか、この歌自体が、その某団体に著作権を預けていなかったりする。

 ある種の開き直りと共に高順は若干変えて賈詡に渡したのである。
 これも未来知識的な反則と言えるだろう。
 1600年以上先、彼らが売れなくなってしまうかもしれないが、そんな遥かな未来よりも10年後の未来の方が高順にとっては重要だ。
 未来を生き、かつ事情を知っている人間からすれば人の褌で相撲を取る恥知らずとかそういうことを言われそうであるが、そこらも覚悟の上であった。


「主は確かに売り込みの為であり、漢の行く末も、庶人の幸福も今は考えておりません」

 賈詡はですが、と続ける。

「このような詩を書くということは、心の奥底でそう思っている可能性もあります」
「ええ、ええ……それは本当でしょう」

 肯定する袁紹だが、賈詡は可能性としか言っていない。
 実際にそうなのかは高順に聞いてみなければどうなのかは分からないが、曹孟徳に仕えたいというあたり、きっと漢をぶち壊したいのだろうということは予想がつく。
 未来知識の通りになれば曹孟徳の行く道は覇道。それは漢とは両立できないもの。
 そして、腐って崩れそうな家は直すよりも壊して新たに建て直した方が早く、安全なのである。



 賈詡が何故、ここでこの手札を使ったか。
 それは袁紹を心理的に高順へ傾けてしまおうというものに他ならない。
 つまり、高順は極めて好ましい相手である、と彼女に印象付けることで将来かかるであろう膨大な資金と物資を渋らせることなく供出させる為だ。

 確かに袁紹は先の密約で必要な物資や資金の無償提供を約束した。
 だが、それはあくまで彼女の考えられる常識の範囲である。
 袁家の金は確かに膨大と言っていいが、賈詡が改めて試算したところ、幽州全土を発展させる為には資金だけで1000万単位で掛かり、最高で億を超えるだけの額となる。
 参考までに三公の一つである司徒がだいたい500万銭、最高位である太尉を1億銭で曹操の父である曹嵩が買っている。
 さすがの袁家も普通にそれだけの金を出してしまえば傾くとまではいかないが、若干貧しい思いをすることは間違いない。
 袁紹も100万程度なら出すだろうが、それほどまでとなると非常識、と渋ってしまうだろう。
 だが、出させなければならないし、そうさせるだけの資金的余裕が袁家にはある。
 それが賈詡が行った名家に相応しくない行いをしていた連中の排除だ。
 元々、彼女が袁紹に言われて行ったこと並程度に戻す為の仕事の一つであるが、賈詡は幽州を押し付けられることを予期していた。

 地政学的には極めて重要な位置であるが、その内情は土地が広い割に見返りが少なく旨味はあまりない。
 袁紹が北方なんぞ放って、さっさと南下政策を取りたいことが賈詡でなくとも分かる。
 しかし、并州の騎兵は袁紹としても欲しいところ。
 ならばこそ、一見して土地が広く、かつ戦略的に冀州を背後から襲える重要な位置にある幽州に白羽の矢が立つ。
 彼女が袁紹に幽州はどうか、と言われたときの笑みは予想通りになりつつあった状況への笑みであった。


 そして、袁家の甘い汁を代々吸っていた連中が溜め込んでいた財はその資金を抽出できる程。
 つまり、その財をそのまま高順に渡すだけであって、袁家は得もしなければ損もしていないことになる。
 だが、そんな大金を他人にぽん、と渡すのは余程の大物か、余程の馬鹿のどちらかしかない。
 袁紹はどちらでもない故に、そうさせる為には彼女の心情をこれ以上ない程に高順へ好意的なようにしておかなければならなかった。


「我が主の動向を掴め次第、こちらに来るよう伝えます」
「ええ、是非に。高順殿と会えるときを楽しみにしておりますわ」

 袁紹の言葉に賈詡は頷きつつ、これで高順が両性具有であることを明かさなくても良いということに安堵した。
 そんなことを明かさずとも、袁紹は高順に協力するだろうことはもはや明白であった。












 戦地から帰ってきて以来、馬騰は気が重かった。
 負けた、ということ自体は良くはないが、そこまで彼女の気を落ち込ませるという原因ではない。
 ただ問題は様々な風評被害だ。
 馬騰はこれまで異民族に対し、勝利を重ねてきた。
 敵よりも少ない兵力で敵を打ち破ったことも多い。
 またその個人の武も天下に轟く程。
 しかし、今回はどうだろうか。

 戦闘の推移を詳しく知らない者から見れば敵の10倍以上の兵力を率いたにも関わらず、甚大な被害を出し、負けて帰ってきた……という風にしか見えない。

 勿論、生きて返ってきた兵士達も多い。
 特に参加した諸侯のうち、10名は戦場にたどり着くことなく脱落しており、彼らの率いていた兵達は無傷で帰ってきている。
 しかし、彼らではそういった風評被害を食い止めようにも食い止められなかった。

 また武官達はともかくとして今回の討伐は兵糧確保や武具確保でかなりの予算が使われており、文官達はどうにかあちこちから必要経費を調達していた。
 朝廷からの意向であるならば仕方がない、と。
 蓋を開けてみれば討伐失敗で彼らの努力は水の泡と消えた。
 さすがにこれではやりきれず、自身の主へ陰口の一つも叩きたくなるもの。
 
 もし馬騰が政にも優れ、善政を敷いていればあるいは民は彼女をかばったかもしれない。
 だが、彼女は残念ながら武人であり、内政に関しては文官達の手を借り、どうにか民が飢えないようにする程度で精一杯だった。
 それだけでもこの時代なら凄いといえるが、可もなく不可もない政ならば人々の記憶に残らない。
 またそれらに加え、朝廷からの命令がより馬騰を窮地に立たせた。
 馬騰は確かにこれまで朝廷に仕え、異民族討伐で功績を上げてきた。
 しかし、今回の討伐失敗は朝廷の権威を大きく傷つけた。
 役人達から見れば20万対2万でどうやって負けるのか、とそういう認識である。
 現場と上層部の認識乖離は世の常。
 故に彼らは馬騰を太守の地位や朝廷の将軍としての地位を奪い、それらを1ヶ月後、売りに出すことに決めた。
 西涼の纏め役の彼女をそうすることは反発を招くが、中央からすればそれを補って余りある程の大失態であった。


 馬騰の評価は多くの民の間でも、そして朝廷の中でも低下し、臣下達の間でも低下する。
 唯一の救いは馬超と馬岱の存在だ。
 彼女達は馬騰を励まし、精神的重圧を軽減してくれるが、それでも限界があった。




 身内だけの祝勝会やら母親との諸々のことを片付けた高順と華雄が馬騰を尋ねたのはそんなとき。
 2人に対し馬騰はまるで10年来の友人を迎えるかのように親しげであった。
 やってきた彼女達は応接間に通された。
 応接間には既に馬超と見慣れぬ幼女がおり、彼女達はどちらも然程緊張した様子ではない。
 馬超は既に先の和平会議で馬騰と共に自己紹介を済ませており、幼女の方は生来の性格故か、ただ興味津々であった。
 そんな幼女を馬騰は紹介する。


「あのときはいなかったが、この子は馬岱だ」
「おば様、たんぽぽはちゃんと自分で言えるもん!」

 そう言って頬を膨らませる幼女――馬岱に彼女以外の全員が微笑ましい視線を投げかける。
 その視線を気にせず、馬岱は咳払い一つ。

「姓は馬、名は岱、字は伯瞻です!」

 元気の良い挨拶は華雄にとって点数は高かった。

「私は華雄だ。中々いい子だな」

 華雄の言葉にえへへ、と笑う馬岱。

「私は高順よ。馬伯瞻殿は先の戦に?」
「呼び捨てで、あと馬岱でいいよー……いい、です」

 砕けた口調で言って、姉役の馬超が物凄い視線で睨んだ為に体を固くしながら言い直す馬岱に高順も華雄も笑ってしまう。

「で、今日呼んだのは他でもない……先の宴会では色々とお互いに囲まれて碌に話もできなかった」
「戦争話について?」
「それもあるが、これからお前達がどうするか個人的な興味がまず先だな」

 馬騰の言葉に華雄は高順へ視線を向け、僅かに頷く。
 全て任せた――そういう意味であった。
 高順もまた心得た、と頷き口を開く。

「形式的だけども、華雄は私の配下となっているの。で、このあとは旅に出る予定」

 砕けた口調で話す高順だが、彼女と華雄は先の和平会議のとき、馬騰や馬超が砕けた口調でいい、と言っていたので問題はない。

「旅か。アテはあるのか?」
「一応は。あちこちで才能ある人材を見つけつつ、ちょっとやることがあるの」
「……新たな勢力を?」

 馬騰は目を細め、問いかける。

「いいえ。私がやることは漢王朝の病巣を取り除くことよ」

 その言葉に馬騰、そして馬超に緊張が走った。
 馬岱は何のことかわからないようで首を傾げている。
 そんな彼女に心惹かれたのか、華雄はおいでおいで、と手招きして招き寄せるとその頭を優しく撫でてやる。
 馬岱は撫でられて嬉しそうだ。 

「宦官をやるのか……?」

 馬超は僅かに震える声で問いかけた。
 高順は何も言わず、ただ笑みを浮かべるだけだ。

「漢の臣である私の前でそういう話をしていいのか?」

 馬騰は平然と問いかける。
 その問いに高順は肩を竦めてみせる。

「もう漢に忠義立てする意味はないんじゃなくて? よろしくないことになっているのは街で民の噂を聞けばすぐに分かるわ」

 その問いに馬騰は押し黙り、馬超は何か言いたげな顔だが、言葉は出てこない。

「寿成殿、2人で話ましょうか」

 会話の主導権を完全に握った高順は内心ほくそ笑みつつ、そう誘った。












 馬騰の要望で彼女の執務室へとやってきた。
 そして、そこで高順は噂が本当であることを確信する。
 執務室はあまりに綺麗過ぎたのだ。
 まるでこれから引っ越します、とでもいうように。

「気づいただろう?」

 馬騰は自嘲気味な笑みを浮かべている。

「私はあと半月もすれば太守でも将軍でも無くなる。ただの武人……でもないな。私の武はお前に通じなかった……否、そういう機会さえも無かった」

 何故だ、と馬騰は問うた。
 その目は剣呑な光を放っており、先程の友好的な雰囲気は皆無。

 高順はその気迫に内心恐怖を感じつつも気丈な態度で告げた。

「私にとって自分の武勇とかそういうのはどうでもいいの。戦争に勝てばそんなものを上回るものが手に入る。負ければ幾ら個人の武勇が優れていようと敗軍の将よ」

 馬騰はその言葉に高順の胸ぐらを掴んだ。
 そして、思いっきり顔を近づける。

「私は……お前に負けたのか……」

 馬騰からすればぽっと出の小娘にしてやられたのだ。
 自分のこれまでの人生全てを否定されたかのように感じてもおかしくはない。
 無論、彼女としても頭では理解している。
 華雄の働きや高順の事前準備や統率は見事であった、と。

 だが、負けた代償が余りにも大きすぎた。
 太守や将軍の地位は馬騰にとってはただの飾りに過ぎない。
 地位や自分の名誉よりも、彼女は自分のせいで漢の威信を大きく傷つけ、いらぬ不安を植えつけてしまったこと、そして膨大な兵を無駄死にさせたことを何よりも悔い、自分を許せないでいる。


 そんな彼女を見つめつつ、高順は口を開く。

「私はただ知っていただけ。私の知ることをあなたが知ればきっとあなたはもっと上にいく」

 でも、と続ける。

「あなたは楽になりたい、と願っている。ならばこそ」

 高順はすっと壁際に立て掛けてある馬騰の槍を指し示した。
 馬騰はその言葉の意味を正確に悟り、ゆっくりと胸ぐらを離し、槍を手に取る。
 そして、その刃の根元部分を手近なところにあった手ぬぐいで巻き、床に両膝をつけた。
 彼女は手ぬぐいを巻いた部分を両手で握り、両目を強く閉じた。

 穂先は馬騰の首筋に当たり、冷たい感触を彼女に伝える。


「名誉の死として看取ってあげましょう。それがせめてもの情け」

 高順の言葉に馬騰は息を吸い込む。
 彼女はゆっくりと槍を首へと突き刺そうと動かし――




 からん、という音が部屋に木霊した。
 





 槍を落とした馬騰は肩で息をし、そして自分の震える体をかき抱き、その頭を垂れる。
 

「死ぬのが怖い……」

 対する高順はというと……どういう言葉を掛けるべきか迷っていた。
 死を選べば自分のトラウマとなること確定だが、少なくとも馬騰を解放してやれる。
 それが高順なりの勝者としてのけじめ。 
 馬騰は無様な生き恥を晒すくらいならば死を選ぶ、とそういう予想が彼女にはあった。
 下手に行くところがないなら私のところに来い、というのはできない相談だ。
 たとえその地位を追われたとしても、馬騰は自らを漢の臣であるとしているだろうことは想像に容易い。
 異民族である高順に与するのは死んでも嫌なことだろう。

 だが、現実は死を恐れ、見た目通りの少女のように馬騰は震えている。

 どうすりゃいいんだ、と途方に暮れる高順だったが、自分と来ないか、と問いかけることにした。
 駄目で元々、それで駄目なら母親としてどっかでひっそり馬超や馬岱と生きればいい、と言えばいいのだ。

「寿成殿、私と来ない?」

 その言葉に馬騰はゆっくりと顔を上げた。
 その目は潤んでおり、荒い息と相まって妙に艶やかだ。

「お前と……?」

 問いに高順は頷き、言葉を紡ぐ。

「宦官を倒すことに協力しろ、とは言わない。あなたは先程も言った通りに知らなかったから負けたに過ぎない。攻城戦の経験も少なかったのでしょう」
「でも、それは言い訳にしかならない。私が負け、兵を無駄死にさせたのは確かだ」
「あなたは戦に負けたことがないの? もしくは勝利したとき、兵に死者はいないの?」
「負けたこともあるし、勝利したときも大勢の死者を出したことがある」
「ならばなぜ、今回そこまで落ち込むのか?」
「桁が違う。1万を超える死者なんだぞ……街が2、3個消えるのと同じくらいだ……」

 この件については平行線を辿る、と高順は悟り、すぐさま話題転換を図る。

「寿成殿、あなたは漢がこのまま続くと思う?」

 単刀直入な問いに馬騰は押し黙る。
 彼女とて分かっていた。
 漢はもう長くない、と。

「それが答えよ。これから先、戦乱が起こるでしょう。万単位で人が死ぬでしょう。あなたはそのとき、どうするか?」

 その問いに馬騰の答えは決まっている。

「力無き民を護りたい。せめて私の目の届く範囲では安心させてやりたい」
「余所の勢力が攻めてきたら、あなたは迎撃するのか? 護るべき民を兵として」

 高順の問いは意地悪だ。
 万単位で人が死ぬ、としておき、馬騰が民を護りたいが護る為には民の中から兵士を集めなければならない。
 二律背反に対し、馬騰がどう答えるか。
 問いに馬騰はただ瞑目した。










 時間はじりじりと経過し、やがて四半刻が経ったときだった。
 馬騰は高順をしっかりと見据え、告げた。

「その攻めてくる相手が民も認める名君であるならば戦わずに降伏しても良いと思う。だが、そうであるとは限らない」

 だから、と彼女は続ける。

「私は戦う」

 そう告げる馬騰はとても凛々しく、先程までとは別人の様であった。

「今回の戦、あなたはどう受け止めるか?」
「これまでと同じようにする。受け入れるだけだ。よくよく考えればおかしな話だ。私は幼いあの日、槍を取ったときに覚悟を決めた筈なのに」

 確かに考えればおかしなことだ。
 今回だけこんなにも馬騰が精神的に消耗するなど。
 おそらくは自らの持ち味を全て殺された、未知の戦いであったのだろう。
 歴戦の将をして、じわじわと消耗を強いられるのは嫌なものであった。

 ともあれ、高順はそんな彼女に溜息一つ。
 これが英雄か、と。
 辛いことにも毅然と立ち向かう姿は羨ましいくらいにかっこ良かった。

「さっきの傷ついているあなたを手篭めにしてしまえばよかったかしらね……」
「いや、もうされたよ。されたとも。少なくともお前には悪い印象はない。先の戦でも華雄と共に、本当に見事だった」

 馬騰はそう言い、立ち上がる。

「で、だ。生きる為には金が必要だ。かといって、悪い意味で有名になってしまった私は中々稼ぐのは難しいだろう」

 一度広まった風評というのは中々消えてはくれない。
 馬騰なら賊退治はお手の物だが、それすらも報酬を渋られそうであった。
 
「蓄えはそれなりにあるとしても、な……それに私は漢に対して忠誠を誓っているが、それはあくまで陛下へのもの。私は宦官に忠誠を誓った覚えはない」

 そう言い、馬騰はまっすぐに高順の瞳を見つめる。

「例え宦官を排除して漢の寿命が僅かしか伸びずとも、それでいい。漢が倒されるのもまた天命だろう。最後の瞬間まで看取るのも臣の務めだ」
「漢が倒れたなら、私へ忠誠を誓って欲しい」

 欲張って、高順はそう言った。
 馬騰はにかっと笑ってみせる。
 
「お前がそうするに値するなら私はそうしよう」

 その答えに高順はただ肩を竦めるだけであった。

「そろそろ戻ろう。もう1人の客人を放置しておくわけにはいかんだろう」




 馬騰の言葉に高順は頷き、2人は先程の部屋へと戻った。
 そこで2人が見たものは華雄にじゃれつく馬岱の姿と苦笑いする馬超の姿であった。


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