吹き出したお湯は勢い良く振りかかる。
彼の赤毛が水を吸って垂れ落ち、そのしなやかな筋肉のついた体はゆっくりと緊張から解きほぐれる。
「ふぅ……」
彼――ネギはゆっくりと息を吐き出した。
彼の住居は男子中等部の寮ではなく、学園長に手配してもらった一戸建て住宅だ。
魔法の隠蔽及び万が一誰かが襲ってきたときの他者への安全性を考えた結果、寮に住むよりは、とネギは考えた。
体をスポンジで洗い、お気に入りのシャンプーとリンスで髪を洗いつつも、彼は思考する。
窓から見える空の太陽はもっとも高くなりつつある。
土曜日の昼、ネギはバルコニーで読書を楽しみつつ、紅茶とサンドイッチを食べるのが習慣なのだが、今日は予定があった。
会ったのはたった一度、入学式後の強引に連れ込まれた女子中等部での歓迎会。
しかも今から会う相手とは二言三言程度しか話していない。
親しい仲どころか、初対面に等しい相手だった。
「こういうとき、鬼が出るか蛇が出るか……そう言うんだったかな」
ネギはそう呟きつつ、シャワーで髪を洗い流し、バスローブを纏う。
それからリビングに出た彼は冷蔵庫からおもむろに牛乳パックを取り出し、一気飲み。
ごくごくと嚥下しつつ、壁にかかった鳩時計へ視線を向ける。
約束の時間は13時、現在は12時10分前。
準備時間は十分にある。
彼は牛乳を飲み干すとそのままゴミ箱へパックをシュート。
5m程の距離はあったが、見事に中へ。
ガッツポーズを取りつつ、テレビをつけた。
「キーやんとサッちゃんのお昼の漫才劇場? 寒いことで有名なアレか」
ネギはクラスメイトから聞いていたことを思い出しつつ、チャンネルを変える。
するとちょうどニュースをやっており、それをバックミュージックに着替えを進める。
とはいっても、フォーマルな格好をする必要はない。
ラフなジーンズとTシャツ、その上に革のジャンパーを羽織って終わりだ。
お腹を満たすべく、冷蔵庫を再び開け、レタスときゅうり、そして生ハムを取り出す。
さくっとサラダを作りつつ、魔法でパンを浮かせ、手近に持ってくる。
「火よ灯れ」
そう言い、指を一振りすればこんがりと焼けるパン。
マーガリンを塗り、紅茶を淹れて本日の朝食兼昼食の完成だ。
ニュースを見つつ、食事を進めるネギであったが、やがてニュースの話題がイギリスとなると手を止めた。
「お姉ちゃんとアーニャは元気かなぁ……」
故郷ウェールズに残してきた2人。
一応、こちらに修行に来ることは悪魔襲撃の後に承諾してもらったが、それでも別れのときは大騒ぎであった。
「……きっと、死ぬだろう」
小さく、彼は呟いた。
勝てる……とは到底思えなかった。
「だけど、何もしないままに殺されるのは嫌だ。最後のそのときまで僕は足掻いてやる。日本では神様の1人だけど、それでも僕は我慢できない」
拳を握りしめ、キッと虚空を睨みつける。
まだ見ぬアシュタロスを威嚇するかのように。
しばらくそうしていたネギは時計を見、約束の時間の30分前であることに気がついた。
彼はゆっくりと部屋を後にした。
ネギが家を出た頃、超が指定した待ち合わせ場所には彼女ともう1人、黒髪で褐色肌の女生徒が対面していた。
褐色肌の彼女は特盛あんみつをパクパクと食べている。
「私が言うのも何だが……よく食べるネ、龍宮サン」
呆れたように言うのは超鈴音。
シニョンヘアと似非中国人語尾が特徴的だ。
彼女の言葉には答えず、食べている方――龍宮真名は全部食べ終え、口元をナプキンで拭う。
「仕事は?」
無駄な会話はしない、という態度に超はやれやれと溜息を吐く。
認識阻害結界が張ってある為に他人には聞かれないとはいえ、こういう仕事一筋なところは頂けない。
「ストイックなのは結構だが、もう少し楽しまないとやていけないヨ。神や悪魔でも」
「私の勝手だ」
仏頂面でそう言う彼女に超はくすくすと笑い、微笑んだまま告げる。
「標的はアシュタロス。前金として500億ドル、成功報酬2000億ドル。経費は全てこちら持ち」
温度が下がったように真名は感じた。
5月だというのに冷気が漂っているような――
「……何故、私に? そういうのは教会とか陰陽寮とか悪魔祓い専門のところへ行ってくれ」
超は笑みを深める。
「神族では悪魔を完全に殺せない。相克の為に。悪魔を殺せるのは同じ悪魔か、それか人間、あるいは……ハーフだけヨ」
「……何が言いたい?」
「簡単な話ヨ。私はあなたのことを知ている。その知ていることからあなたが倒せる可能性がある、と判断した。故に倒して欲しい……それだけダ」
笑みを浮かべたままの超に真名は睨みつつ、問いかける。
「そもそもアシュタロスは存在するのか? 存在しなければ倒せない」
「安心するといいヨ。1年後、麻帆良学園女子中等部の修学旅行。そこで人前に出てくるヨ」
そう言い切る超。
真名は彼女が嘘をついているようには到底見えなかった。
彼女とて傭兵として色んなところを渡り歩き、そして色んな人物を見てきた。
嘘をついていればカンに引っかかるものがあるが、超にはそれがない。
未来視ができるのかもしれない、そう彼女は判断しつつ、更に問いかける。
「何を使えば倒せるんだ?」
普通の銃弾は勿論、伝説が本当ならば核弾頭をぶつけても倒せるようには思えない。
その問いに超は懐から小さなケースを取り出し、それを机の上に置いた。
「コレを使うとイイ。口径は12.7mmダ」
そう言って彼女がケースを開けるとそこには1発の銃弾が入っている。
見慣れぬ白銀色の弾頭部分、そこに強烈な魔力を感じた。
彼女の本能が囁いた。
コレはヤバイ、と。
だが、と疑問に思う。
クライアントの詮索はしないのが彼女の主義だが、どうしても疑問を覚えずにはいられない。
「お前は一体何者なんだ?」
「課題に追われ、母親に頭が上がらない哀れな一少女ヨ」
恐ろしく胡散臭い話であるが、真名はどうにも超が嘘を言っているようには見えなかった。
超という少女は胡散臭いが、嘘はつかない――そういう妙な確信だ。
だが、アシュタロスを倒すなんてことを言っている輩。
油断はできない。
見た目と中身が同じであるという保障はどこにもない。
「何故、お前はアシュタロスを?」
「これを見て欲しい」
超はそう言い、手のひらサイズの金属の板を取り出す。
真名がそれに不思議に思っていると超は操作していき、空中にモニターが浮かび上がった。
そして、そこに映し出されていたものは……瓦礫と化した都市、鎮座する異形の化物、黒い空であった。
「2269年、アシュタロス、地上侵攻。これで分かてくれると思う」
「未来視だと思ったが、実際に未来から来たのか……」
「そうダ。信じてくれないと思て言わなかたガ……」
「最初から言われていたら信じられなかっただろうな」
そう答え、真名は懐から便箋を取り出し、超に渡した。
「前金は指定口座に1週間以内に」
超はそれを受け取り、にっこりと笑顔。
「受けてくれてヨカタ」
2つの意味で受け取れる言葉に真名はますます超が不思議になる。
ただの人間にしか見えないが、どうにもこちら側――魔族の事情を知りすぎている。
だが、真名は思い直す。
依頼を受けた以上、どうやって標的を倒すか、それだけを考えなければ、と。
そして彼女はケースを持ち、その場を後にした。
「予想していたとはいえ、不思議なものネ……今も昔も彼女は変わらないカ……」
超が感慨深く呟いたそのとき、彼女は近づいてくる魔力を察知した。
腕時計を見れば12時50分、約束の時間の10分前。
「さてさて、未来の英雄にお目にかかるとするカ……」
そう呟きつつ、彼女はネギに手を振った。
結界は既に解除されている。
そんな彼女に彼は気づき、ゆっくりと近づいてきた。
ネギは彼女に軽く挨拶し、対面の席へと座り、ウェイトレスに紅茶を頼んだ。
紅茶はすぐに持ってこられ、一口味わったところでネギは切り出した。
「それで僕に何の用ですか?」
問いかけに超は再び『結界を』展開する。
それに気づいたのか、ネギの顔が若干強張った。
何故ならば超からは全く魔力が感じられなかった。
魔力が無い筈なのに、何故道具も何も使わず結界を展開できるのか――?
「安心するとイイ。私は手を出さないヨ。むしろ、私は君の味方ダ」
いきなりそんなことを言われて人を信じられる程にネギは純粋ではなかった。
胡散臭い、という視線をこれでもかとぶつけてくる彼に彼女は笑みを浮かべる。
「君が3歳だかのとき、アシュタロスの配下の上級魔族3体が君を襲た」
ネギは僅かに魔力を高めた。
しかし、それはあくまで威嚇。
彼は超の次の言葉を待つ。
「襲った悪魔はヘルマン侯爵、コンロン子爵、ダイ・アモン子爵。当時の村の戦力では……というか、人類では紅き翼クラスでないと太刀打ちできないレベルの連中ダ。連中が本気を出せばイギリス本土が海に沈むヨ」
「何故、あなたがそれを?」
「簡単なこと……私は未来からこの時代にアシュタロスを倒す為にやってきたからダ」
ネギは超の顔をじーっと見つめ、盛大な溜息を吐いた。
「すいません、SFなら余所へ行ってください。あ、ちなみに僕はH・G・ウェルズが好きです」
「中々良い趣味ダ。将来、宇宙大戦争という映画が公開されるから見に行くとヨロシ」
「で、実際のところ、あなたは誰ですか? 何故、僕について?」
「未来から来たからダ」
ネギは同じ言葉しか返ってこない超に胡散臭いと感じつつ、更に言葉を続ける。
「で、その未来の使者が何でアシュタロスを?」
「起こり得る未来を回避する為ダ」
そう言い、彼女は懐から手のひらサイズの金属の板を取り出した。
「それは?」
「2272年型の携帯端末ダ。これ一つで電話からメール、インターネットにネトゲ、何でもできるヨ。お値段は1台3万円、基本使用料は月に1500円」
「……はぁ」
何だか妙に具体的な数字にネギはますます超を胡散臭い、と感じてしまう。
そんな様子に彼女は特に気にした様子もなく、その端末を起動させた。
ヴン、という音と共に空中にモニターが浮かび上がる。
「空間投影ディスプレイ……よくゲームとか漫画とかではウィンドウと称されるものダ」
「本当に未来から来たっぽいですね」
へー、とネギは感心。
「で、私はこの見た目だが、未来ではとある大学院の博士課程に籍を置いているのダ……まずはコレを見て欲しい」
超はウィンドウの項目を操作し、ある画像を表示した。
「……やはりSFですか?」
ネギはそう問いかけた。
そこに映っていたのは瓦礫の中にそびえ立つ全長及び全高数十m以上の異形の化物。
一目で地球でも、魔法世界の生物でもないと分かるソレ。
SF映画に出てきそうな怪獣であった。
また画像にある空は真っ黒に染まっており、世界の終わりの光景と言っても過言ではない。
「いや、コレは2270年の東京お台場の姿ダ」
「……は?」
ネギは間の抜けた声を出した。
彼は画面を凝視し、目を擦り、もう一度画面を凝視する。
「画面を変えるカ……」
超は再び操作し、別の画像を出した。
やはり瓦礫の山と真っ黒な空の下、先程とは違う怪獣が鎮座している。
ネギは再び凝視し……
「あ、これって……」
横倒しにされた東京タワーが瓦礫の中にあるのを彼は発見した。
「2269年6月22日。地球はとある魔族による侵攻を受けタ」
超はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「恐ろしい程に統率されたその魔族の軍団はたちまちのうちに地球の空を覆い尽くしタ。人類は国連を中心にただちに反撃を開始したが、主力となていた光学兵器や光子魚雷、量子魚雷すら通じない相手には無力ダタ」
その黒い空は、と超は続ける。
「様々な兵器を使用した結果ダ。重金属をはじめとした有害物質の雲に覆われ、地球は植物や微生物すら生きられない死の星となてシマタ。人類はその活動拠点及び反抗拠点を他の惑星やコロニーへと移し、対悪魔共同戦線を展開しているのダ」
語る超の表情は暗く、それでいて真剣であり、とても嘘には見えない。
「その魔族というのが……?」
ネギの問いに彼女は重々しく頷く。
「アシュタロス。地獄の王の1柱。その軍勢は数千万とも言われ、本人の実力も地獄で上から数えた方が早いと言われてイル」
ネギは沈黙した。
未来でそうなっている、ということは自分が失敗したからだ。
足掻くことすらできずに死ぬのではないか――?
「君のやることは失敗する。全人類を巻き込むのは正しいガ、アシュタロスはそれを見抜いている。自らが敗北するパターンを全て把握しているのダ」
だが、と超は続ける。
「未来を知ている私が協力すれば良い。私は向こうでは……言い方は悪いガ、アシュタロスに匹敵する悪魔的頭脳の持ち主とか呼ばれていたりするのダ」
そう言い、彼女は懐から1つの懐中時計を取り出し、ネギに手渡した。
「これは?」
「時空間移動時計のカシオペアダ。私が作たもの。上位悪魔は時間すら操る……それに対抗する為ダ」
「本当……ですか? 信じられないのですが……」
「使てみるといい。その出っ張っている竜頭を押せば止まるヨ」
超の言葉にネギは半信半疑でそこを押してみた。
すると周囲の喧騒が一瞬で消え失せた。
ネギが周囲を見てみると誰も彼もがまるで人形のように固まっている。
「長針、短針を時計回りに進めれば未来へ、逆回しならば過去へ行くことができる。竜頭を押すだけではただ時間が停止するだけダヨ」
「時間停止の効果時間は?」
「秒針で指定できるヨ。初期設定では20秒、最大で60秒ダ。停止できる範囲は使用者を中心に半径10m、停止させると同時に自動で認識阻害結界が展開されるから安心ダヨ」
超がそう言ったそのとき、喧騒が舞い戻ってきた。
止まっていた周囲は何事も無かったかのように動き出す。
「凄いものなんですが……アシュタロスと戦うには心許ないですね」
「仕方がないヨ。それは最低限の装備ダ……ただ……」
超は溜息を吐きつつ、言葉を続ける。
「停止させて悪いことをするのはヤメテクレ。やろうと思えば銀行強盗とか万引きとかし放題ダ……」
「誰かやったんですか?」
「私の母ガ……」
はぁ、と盛大に溜息を吐く彼女にネギはどう言葉をかけていいか困惑しつつも、何とか励ましの言葉を出すことに成功する。
「えっと、強く生きてください……」
「ああ、よく言われるヨ……君も強く生きるんダ。君もきとこれから精神的に苦労することになるだろう……」
そう言い、彼女はゆっくりと立ち上がった。
「これでお開きダ。私の連絡先はコレネ」
超は便箋をテーブルに置き、そそくさと去っていった。
残されたネギは便箋を摘みつつ……
「未来でも家族って大変なんだなぁ……」
アシュタロスよりもそこにしみじみとしてしまうネギ。
彼の両親も事情があったとはいえ、育児放棄している事実に変わりはなく、色々と思うところがあったのだった。
帰路についた超は歩きながら呟く。
「ネギ坊主もマナ姉もまだまだヨ。私は一言も未来で現実に起こているとは言てないヨ」
彼女は近くにあったショーウィンドへ視線を送る。
おもちゃを展示しているのだろうか、子供達が集まり、ガラスに手をつけて何かを見ている。
ガラスには子供達と共に風景や通行人が映っているが、その中に超の姿は無かった。