「……拙者、運が悪かったのでござるかな」
そう愚痴りつつ、天井にへばりついているのは長瀬桔梗。
彼女は近衛紅葉暗殺にやってきたものの、何だかよくわからないうちによくわからないところに転移させられていた。
そして、彼女は本能的に感じた危険にすかさず天井にへばりついて眼下を行き交う見慣れぬ服装の女性や、あるいは見慣れぬ妖を観察していた。
西洋の城の一言で片付けるにはあまりにも異質であり、感じる邪気は無数。
勝手に侵入してごめんなさい、で済む相手ではござらんな……そう心の中で呟きつつ、いつまでもここにいるわけにもいかない。
故に彼女はタイミングを見計らい、廊下に降り立った。
桔梗は罠を警戒しつつ、廊下の真ん中を駆け抜ける。
左右の壁に触れた瞬間どかん、とそういうオチが予想できたからだ。
しかしながら、幾ら彼女が忍びとして優れていようと、人間の数千倍以上の知覚領域を持つ上位悪魔に、彼女の隠密技術は全く役に立たなかった。
やがて桔梗は強大な魔の気配を感じ、冷や汗を掻きながら手近な柱の影に隠れた。
気配を限りなく薄くし、そして自らは影であると自分に念じる。
念じたのはそうすることで気を紛らわせようとしたのだ。
かつかつかつ、と規則的な足音が響く。
桔梗の心臓はこれまでにないくらいに早鐘を打ち、緊張だけで破裂してしまうかも、と彼女自身が危惧する程であった。
呼吸は荒く、喘ぐように息をするが、そこは忍び。
呼吸音を出すなどのミスはしない。
やがて足音は間近まで来、そして止まった。
「……いけない子がいるわね」
妖艶な笑みを浮かべつつ、足音の主ディアナは視線を1つの柱に向ける。
彼女の瞳には隠れている侵入者の姿がはっきりと映っていた。
ディアナは柱に近づき、その手をゆっくりと影となっている部分に向け……
瞬間、柱の影から高速で飛来するクナイ。
それは彼女の喉目掛けてまっすぐにやってくる。
だが、ディアナには蠅が止まる程に遅かった。
それだけならば彼女はただ首をズラすだけで回避できただろうし、そもそもただのクナイならば彼女の体に当たったところでクナイが砕けて終わりだ。
そのクナイには見慣れぬ札が貼りつけてあった。
ディアナの目の前に迫った瞬間にクナイが爆発した。
ただの爆発ではなく、強烈な閃光と悪臭が周囲を覆い尽くす。
さすがのディアナもこれには不意を突かれ、その隙に桔梗は素早くその場から離脱した。
「……許さない。絶対に」
後に残されたディアナには怪我は全くない。
だが、彼女の肉感的な体は悪臭が漂っていた。
匂いフェチでもあるアシュレイもさすがに遠慮したくなるような、卵が腐ったような悪臭。
彼女のプライドは著しく傷ついてしまった。
狩られるだけの家畜に過ぎない人間が悪魔に対して反抗するなどあってはならないこと。
ましてや、アシュレイの陣営でも上位に入る自分がこんな目にあうなど、アシュレイに知られたら大変な事態。
だが、ディアナは同時に聡明でもあった。
躍起になって自分だけで捕らえようとするよりは人数を動員して確実に捕らえてからオシオキするのが良い、と。
ディアナはすぐさま念話でもってテレジアに伝える。
訓練として侵入してきた人間を捕らえよう、と。
「早まったか……」
桔梗は思わず呟いてしまった。
あの妖魔に土下座でもして見逃してもらえばよかったか、とそういう意味の言葉であった。
あの一件から既に30分が経過している。
彼女を探す者は増加の一途を辿っていた。
中でも驚いたのが見慣れぬ黒い外套と鉄兜を纏い、手には鉄でできた筒のようなものを持っている。
そして驚くべきことにそんな異様な出で立ちをしているのは男ではなく、胸の膨らみや声などから桔梗と同年代か、それより年下の少女達であった。
彼女達は人間とは思えない速度で疾駆し、あちこちをしらみ潰しに捜索している。
現在、桔梗はディアナとの遭遇地点から5つの階段を下り、10分程全力疾走した先にあった小さな会議室にいた。
そこにあった窓から外を覗いてみれば、太陽のないどんよりとした曇り空が広がっており、遠くに無数の街並みが見えた。
しばらく異郷の景色に見入っていた彼女であったが、やがて廊下が騒がしくなり、こっそりとドアを少し開けて覗いてみた。
そして、前述した少女達を目撃したのだ。
「どうしたものか……」
忍びである彼女はあくまで暗殺とか諜報とかそういったものが仕事であり、妖魔と正面切って戦うのは得意ではない。
そういうのは神鳴流や陰陽師の仕事だ。
戦えないこともないだろうが、あの妖魔が出てきたらそれだけで終わる、と彼女は確信する。
「人間同士の戦なら大将を倒せば終わるのでござるが……」
大将を倒したところで終わるかどうかは極めて怪しく、そもそもその大将を倒すことが極めて困難であることは想像に難くない。
八方塞がりの状況に桔梗は溜息を盛大に吐いてしまった。
「このままいてもどうしようもない。ならば、死中に活を見出すしかないでござるな」
そう呟いたそのとき、彼女は振り向き様に棒手裏剣を放つ。
そして、すぐさま彼女はドアから逃れようとし……
「残念ですが、あなたよりも私の方が速いです」
すっと背後から首筋にナイフを突きつけられた。
ごくり、と桔梗は唾を飲み込む。
冷や汗が一筋、彼女の頬から流れ落ちた。
「よく逃げることができましたね。あのディアナさんから」
「いや、運が良かっただけでござるよ」
そう言いつつ、桔梗は逃走経路を思考するが……
「残念ですが、ここにはそこのドアと窓以外に出入口はありません。私は転移魔法で入ってきました」
絶体絶命でござる、と心の中で呟きつつも、それはおくびにも出さずに桔梗は問う。
「どうして拙者に気づかれずに? そもそもどうして居場所が?」
「お気づきかもしれませんが、私も人間は既にやめております。ああ、ご安心を。他の方も既にあなたを探知しています」
桔梗には全然安心できなかったが、彼女はゆっくりとナイフを突きつけている方とは反対側の首筋に顔を埋めた。
そして、その肌に舌を這わせる。
与えられる感触に桔梗は体を震わせつつ、すぐさま提案する。
唯一のチャンスであった。
「拙者、寝技も得意でござる。きっとあなたを満足させることができるでござるが……」
桔梗の提案には答えず、彼女は桔梗の首筋を舐め回し、噛み付いた。
痛みは無く、桔梗は快感に襲われる。
数分して相手は顔を離した。
「中々美味しい味です。けれど、処女ではありませんね」
そう言いつつ、彼女はナイフを下ろした。
その行動に訝しげに思いつつ、桔梗はせめて相手の顔を見てやろうと振り返った。
灰色の髪を三つ編み団子にし、髪と同色の瞳はまっすぐに桔梗を見つめている。
「レイチェルと申します」
微笑み、彼女は告げた。
「長瀬桔梗でござる」
「では桔梗さんと。桔梗さん、あなたには2つの道があります。ここで私に殺されるか、それともアシュ様のご慈悲を頂くか」
そのとき桔梗は何やら聞いたことのあるような単語を発見した。
「一つ聞きたいのでござるが……そのアシュ様という方はアシュタロスという名前で日の本では明日菜と名乗ってはござらんか?」
「そうですが……」
なぜ、という顔を向けるレイチェル。
ここは突破口と桔梗は一気にまくし立てた。
「拙者、明日菜殿には勉強を教えてもらったでござる。拙者を拘束してもいいでござるから、その条件に明日菜殿に確認を取って欲しいでござる」
「私は別に構いませんが、ディアナさんの怒りはあなたが責任持って鎮めてください。プライドが高い方なので」
「……努力するでござる」
どうにか窮地を脱した桔梗であったが、彼女はこの後、ディアナからネチネチと性的な拷問を受けるのであった。
時間は少々遡る。
アシュタロスの信仰横取り計画に神界上層部は色めきだった。
デタントに邁進する最中に起きた凶事。
だが、これはデタントには反していない。
神魔交流会によって決まった取り決めには魔族は神族に手を出してはならない、とそういう文言は組み込まれていない。
勿論、バレたときの軋轢はアシュレイにとっても簡単に予想できたが、それらは然程問題ではない、と彼女は判断した。
何しろ、アシュレイとしては地球以外の場所でならハルマゲドンを再びやってもいいのだから。
勿論、彼女としてもやりすぎて世界が滅びては本末転倒なので、本気でやるのではなく、ルールを決めた、いわゆるゲームとして戦争をやりたい。
そうすれば暇も潰せるというものだ。
それに女天使や神族を捕まえて色々致すということもできる。
そんな彼女の思惑とは別にデタントについて頭を悩ませるキーやんがいた。
「どうしましょうか」
傍らにいるメタトロンにキーやんは問いかけるが、彼はゆっくりと口を開く。
「デタントはおそらく大丈夫でしょう。若い神族達はアシュタロスに憤怒していますが、一番過激な帝釈天一派は静観、他の中立派などはあのアシュタロスならば仕方がない、と実質的に容認しています。何よりも、既に地獄からアシュタロスに釘をさした、と連絡がきております」
「そうです。そこは問題ないのですが……」
キーやんは傍にあった斉天大聖が持ってきた緑茶を啜り、告げる。
「問題はアシュタロスがより強大化してしまったことです。彼女は我々から奪った信仰は無論のこと、今回の一件で人間達に事の顛末がバレたらより恐怖の存在として恐れられることになります」
「……バランスが崩れる、と?」
「そうです。これでは魔族側に傾いてしまう」
そう言うキーやんにメタトロンは告げる。
「あのアシュタロスがそこを考慮しないわけがありません。おそらく、何人かの、彼女の配下にない魔神が消えるかと」
事もなげに言うメタトロンにキーやんは溜息一つ。
「大方、それなりに強い女魔族を取っ捕まえて色々と淫らなことをするんでしょうね」
アシュタロスほど分かりやすい悪魔も中々いない、とキーやんは心の中で呟く。
「ですが、真面目な話、バランスが崩れるならば世界が何かしらのアクションを起こすでしょう。アシュタロスもそれを待っているのかもしれません。さすがの彼女も実力はともかくとして、立場的に魔神クラスの輩を意味もなく討伐したりはできません」
ですね、とキーやんは同意した。
いくら地獄といえど、さすがに魔神以上ともなればそれなりに行動を縛られる。
その反面、莫大な財と広大な領地を得られ、魔神未満の魔族には好き勝手振る舞えるのだが。
ともあれ、キーやんの推測は正しかった。
アシュレイはもし自分の行動が世界にとって都合が悪いのならば修正システムが働く筈だ、として動いていたのだから。
つまり、世界が何かしらペナルティを与えない限りは好き勝手にやれる、とアシュレイは考えていたのだった。
「我々にできることは然程多くはありません。静観するか、それともアシュタロスに抗議するか……このどちらかです」
「フレイヤを出さない、という選択肢は?」
メタトロンは意地悪くキーやんに聞いてみた。
彼の問いに苦笑し、キーやんは答える。
「神界の秩序の為に、そしてデタントの象徴として彼女には嫁に行ってもらわなければ困ります」
「その為に堕天せずに?」
「ええ、そうです。公然の秘密ですが、フレイヤがアシュタロスと事を行っても、彼女は堕天しなかった。ならば堕天させるよりもこのまま神族として嫁に行った方がデタントには都合がいいのです」
メタトロンは僅かに頷きつつ、問いかける。
「静観しますか? 抗議しますか?」
「一応抗議はしておきましょう。彼女もフレイヤが欲しいでしょうから、こっちの事情を汲んでしばらくは大人しくしてくれるでしょう」
「一部の過激派が報復すべきだ、と息を荒げていますが?」
「アシュタロスも先の戦争からより強大化しています。他の魔王も当然参戦するでしょうから、神族の半分が消える覚悟をしないと駄目でしょうね。そして、そのまま世界滅亡エンドです」
「嫌な相手ですね、アシュタロスは」
「こっちに制限を掛けた上で自分は好きに動く、と……本当に嫌な相手です」
深く溜息を吐くキーやんであった。