エヴァンジェリンは教皇領――現在でいうバチカン市国にやってきていた。
アヴィニョン捕囚により、権威を失ったかに見えたが、それも昔のこと。
アシュレイが裏から支援したことにより教皇領は再び輝きを……否、かつてよりも輝いていた。
聖職者であるにも関わらず、その領内にある高位の聖職者達の屋敷は絢爛豪華であった。
そして、その中でも一際大きな屋敷がエヴァンジェリンの目的地であった。
彼女は警備の騎士に案内され、屋敷の中へと通された。
応接室で待つこと数分。
「これはこれは……よくぞいらっしゃられました」
やや小太りの煌びやかな法衣を纏った男が現れた。
その背後には銀髪紅眼の女性が2人、従っている。
エヴァンジェリンにはすぐにその女の正体が淫魔である、と分かった。
「教皇猊下、私はさる方からここに来るよう言われたのだが」
一応、エヴァンジェリンは敬語である。
たとえ、目の前の男の命が残り数時間であるとしても、今はまだ教皇である。
「おお!」
男――教皇は大げさに両手を広げ、そして背後を振り返った。
「お前達! あとで存分に愛でてやろう! よく願いを叶えてくれた!」
その言葉に銀髪の淫魔2人……リリスとリリムは愛想笑いを浮かべるだけであった。
彼女達からすればようやくお役御免となるので嬉しい限り。
「で、私は何をすればいいのか?」
エヴァンジェリンは爆笑したいが、それを何とか堪えつつも尋ねる。
彼女からすれば自分を吸血鬼とし人類の守護者にしようとした連中のボスが目の前で、欲望の為に自分に対して願うのだ。
これほど痛快なことはない。
「私をはじめとした希望する者を不老不死にして欲しいのです」
エヴァンジェリンは笑い転げたくなるのを気合で抑えこみつつ、険しい表情となって問いかける。
「不老不死となるには苦行を乗り越える必要がある……死の危険があるものだ……それでもいいか?」
「構いません。多少のことは仕方がありません」
「そうか……ならば早速やるとしよう……」
そう言いつつ、エヴァンジェリンは淫魔2人にウィンクしてみせる。
そんな仕草に2人はくすくすと笑う。
「ここよりもなるべく人が来ないところがいい」
「ならば地下室を提供しましょう」
教皇はこちらへ、とエヴァンジェリンを案内したのだった。
そして、数時間にも及ぶ苦行と称した拷問が加えられ、この日、彼は死亡した。
明けて翌日。
エヴァンジェリンは接待を受けていた。
彼女は豪華な椅子に座り、目の前の愛想笑いを浮かべる煌びやか法衣を纏った男達を見ていた。
彼らは枢機卿であった。
「真に遺憾にございます。先代の猊下はどうやら不老不死となる資格がなかったようで……」
そう言いつつ、へこへこしている枢機卿の1人。
「前置きは構わん。用件は手短に、だ」
エヴァンジェリンの言葉にその枢機卿が改まって告げる。
「あなたが我々を不老不死にしやすいよう、ここに滞在できる理由を作る必要があります」
「確かに。それで、私にどういう地位を用意してくれるのかな?」
試すようにそう言うエヴァンジェリンに枢機卿は告げる。
「あなたには教皇となっていただきたい。そうすれば我々を呼んでも何ら不自然ではありません」
「女教皇なんぞ聞いたことがないが?」
「そこらへんは心配がないと思います。あなたは両性具有の筈です。見た目が女であっても実は男であれば何ら問題は……」
悪魔=両性具有というのは決して特殊なイメージではない。
エヴァンジェリンはなるほど、と頷きつつ、気になっていたことを問いかける。
「私の容姿や名を知って何か思うところはあるか?」
その言葉に枢機卿達はそれぞれ顔を見合わす。
その反応を訝しく思い、彼女は更に問いかける。
「結構前、神魔族から人類を守る為に吸血鬼を作ろうというのを耳にしたことがあるのだが……」
それで彼らは納得がいったらしい。
「あの計画は失敗に終わりました。我々を恐れた恐怖公に察知されて」
エヴァンジェリンは思わずくつくつと笑う。
そうなっているのは彼女にとってとても都合がいい。
つまり、エヴァンジェリン・マクダウェルが生贄にされたということは表に知られていない。
名前と容姿を知っているのは彼女の両親とグレゴール、他にあの城にいた連中のみ。
そして、彼らは全員死亡している。
目の前にいる計画に協力した連中は顔どころか名前も知ってはいない。
エヴァンジェリンが好きに動いたところで吸血鬼と結びつけるのは中々に難しいだろう。
何しろ、彼女は日光の下を歩き、川で泳ぎ、銀の食器を使うのだから。
「ああ、ところで教皇になるなら姿を変えておいた方がいいかな? このままでいいなら構わないが」
なんだかんだでエヴァンジェリンは13、4歳程度にまでなっている。
その胸はもはやぺったんこではなくそれなりに大きなものだ。
髪は腰辺りまで伸ばしており、顔の良さも相まって非常に美しかった。
「どちらでも構いません。民衆は我々の制御下にありますので」
エヴァンジェリンは再び笑う。
人間そのものが、神魔族の制御下にあるということを知っている者からすれば滑稽にしか見えない。
たとえ人間がどういきがったところで神魔族には敵わない。
エヴァンジェリンは神族はともかく、魔族のとんでもなさは十分に理解していた。
「ではこのままの格好で堂々といこう……」
こうしてエヴァンジェリンは最高権力者となった。
アシュレイの支援による十分に腐敗した教会の象徴といえよう。
どこの誰とも知らぬ者を、自分達のトップに据えるなんぞ正気の沙汰ではない。
ともあれ、こうしてエヴァンジェリンの復讐は全て完全に達成された。
生贄にされた少女がそうした教会のトップに君臨する……これほど最高の復讐は存在しなかった。
その頃、ダイ・アモンは地獄にあるアシュレイの城にいた。
そこで彼は運命的な出会いを果たしていた。
無言で彼は見つめる。
その視線の先にいるのは老紳士と筋肉質な紳士。
「同志よ!」
ほぼタイムラグなしで彼らは手を握り合っていた。
何かもう魂的なレベルで彼らは互いに互いを友だと感じ取っていた。
「私はダイ・アモンです。以後、よろしく頼みます」
新参者であり、実力的に最も下であるが故に彼は最初にそう名乗り、頭を下げる。
「私はコンロンだ。一応、子爵であるが……そういうのは抜きにしてくれたまえ」
こちらもまた軽く頭を下げ、再び握手を求める。
その求めに応じ、ダイ・アモンはぎゅっと手を握る。
「そして、私はヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヘルマンだ。侯爵だが……立場を抜きにした友人となりたいと思う」
こちらも握手を求め、それにダイ・アモンは応じる。
「しかし、地獄とは聞いていたものとは少々違う。このような紳士がいるとは……」
「いや、ここが特殊なだけさ。何しろ、アシュタロス様は地獄の魔王にして先の戦争の英雄なのだよ」
ヘルマンの言葉にダイ・アモンは興味深い単語に反応を示す。
「どういうことですか? 先の戦争?」
「ああ、ハルマゲドンが数千年程前に起こってな。その際にアシュ様は数々の武功や偉業を成し遂げ、地獄の英雄として称えられているのだよ」
ヘルマンの言葉にダイ・アモンは目を剥いた。
「もしかしてハルマゲドンは既に起こったのですか?」
「起こったとも。私は元々は天使であったが、その戦争の後、サタン様についてここにやってきた」
ダイ・アモンは思わず体を震わせる。
それは歓喜と興奮であった。
自分が、より高みの存在と出会えたこと、そして自分もまたその高みに至れるかもしれない、というもの。
まさに彼からすれば神話に遭遇しているようなものだ。
そうならないわけがない。
「アシュ様は偉大な御方だ。ただあまりに偉大過ぎてよくわからないところもあるが……あの御方の御心は我々如き下位の者では計り知れない」
なるほど、とダイ・アモンは頷きつつ、問いかける。
「ところで私は採用なのですか? エヴァンジェリンからとりあえず地獄に行けと送られたのですが」
その言葉にヘルマンが答える。
「採用だとも。基本的にアシュ様は来る者を拒まない。それが魔の者であれば尚更だ。ただ、アシュ様に謁見するのは今は極めて難しい」
彼の言葉に続き、コンロンが告げる。
「今、アシュ様は人間界でバカンスの最中だ。とても面白いことに一時的に人間の配下となっている。ああ、あと、人間の子守も始めたらしい」
ダイ・アモンは思わず耳を疑う。
終末の竜とも称されるあのアシュタロスを人間が従えるなんぞ、性質の悪い冗談にしか聞こえなかった。
そのアシュレイは京都でのんびり過ごしていた。
彼女は現在、近衛家に遊びにきている。
天ヶ崎家と近衛家は仲が悪いように思われているが、実はそんなことはなく、共に陰陽師のライバルとして、また仲間として仲は良いのだ。
「なあ、明日菜。これ、どうや?」
そう声を掛けるのは近衛家の一人娘、近衛紅葉。
今年で14歳となる彼女の手には彼岸花が。
「綺麗な花じゃない」
そう言う彼女に紅葉はえへへ、と笑い、自らの頭に彼岸花を添えてみせる。
それにアシュレイはほう、と感嘆の声を洩らした。
彼女の黒髪にその彼岸花は非常によく似合っていた。
紅葉の白い肌に相まって、まるで彼女が死人のように見える。
そして、それは紅葉の境遇を示している。
アシュレイは知っている。
紅葉が近衛本家の1人娘であるにも関わらず、その魔力が極めて少ないことに家族以外の連中からよろしくない目で見られていることを。
そんな紅葉に遊び相手を、と千奈がアシュレイを派遣したことが交流のきっかけであった。
アシュレイからすればそんなことは全く気に掛ける必要もないので、極々普通に紅葉の遊び相手となっていた。
さすがのアシュレイもそんな紅葉をいきなり頂くようなことはしなかった。
今のアシュレイは一応千奈の式神。
ならばこそ、ある程度は弁えなければならなかった。
「明日菜はええ子やなぁ」
唐突な言葉にアシュレイは首を傾げる。
「ウチによう付き合うてくれて……いろんなこと教えてくれて……これが友達っていうんかな……」
照れたように顔を俯かせる紅葉。
そんな仕草にアシュレイはごくり、と唾を飲み込むがグッと我慢する。
「あんな、ウチな……もしかしたら殺されるかもしれへん」
「……何かとんでもない言葉が出てきたわね」
軽い口調でそう言う紅葉にさすがのアシュレイも呆れてしまう。
「分家の過激なんが、これじゃ面目が立たないって言うてるみたいんよ」
「普通なら幽閉とかで済む話じゃないの?」
「自分の家の格を上げたいんやろ。そうなるにはウチを殺した方が早い。ウチの子供が、優れた才能を持っとるとは限らへん」
紅葉はそこまで言った後、数秒の間をあけてからさらに告げる。
「近衛は一枚岩とは言えへん。現当主の排除派はさすがにおらへんけど、それでも過激なんは仰山おる。次の当主になりたいのは掃いて捨てるほどおるんや」
「で、それを私に言ってどうするの?」
「明日菜に迷惑はかけとうない。明日菜が強いんはウチにも分かるけど……無関係な権力争いに巻き込みとうない」
「まあ、私が本気出したら日本統一どころか世界統一しちゃうしね」
その言葉に紅葉はくすくすと笑う。
「ウチ、明日菜のそういうとこ好きや。何か自分のことがちっぽけに思えてくる」
「じゃ、妾になる?」
「嫁やないんか?」
「もう婚約者がいるの。わりと本気で」
紅葉は驚くどころか納得したように数度頷く。
「男のアレもあるんやったな。そういえば。ウチ、父様の以外で初めて見たで……」
近衛家に泊まるときは一緒にお風呂に入って一緒に寝ていたりする。
「まあ、私くらいになると妾の100万や1000万は当然なの」
「それやと密度が低そうやなぁ」
「加速空間で時間伸ばすから大丈夫よ……ところで、あなたも相当アクドイわね」
アシュレイの言葉に首を傾げる紅葉。
そんな彼女にアシュレイは溜息一つ。
「わざわざそんなことを言うってことは私に助けて欲しいってことなんでしょ?」
「そりゃウチかて死にたくあらへんよ。やから、助けれたら助けて欲しいなって」
ただなぁ、と紅葉は続ける。
「明日菜がどのくらい強いか、ウチは勿論、千奈さんもよう分からへんねん。分家いうても、腕利きはいっぱいおる」
そういえば、とアシュレイは思い返す。
千奈に使役されて以来、真・雷光剣を防ぐくらいで実力を全く発揮していないことに。
式神の本業である戦闘を全くしていないことに。
「それじゃ私の実力を示す為にちょっと空を変えるわ」
おお、と紅葉は驚きの声。
そして、わくわくした顔をアシュレイに向ける。
「天気っていうか、皆既日食よ」
そう告げ、彼女は両手を天にかざす……などということもせずにただ己の魔力を使い、念じた。
するとどうしたことか。
真昼間なのに徐々に空が暗くなっていく。
紅葉は目の前で起きた超常現象に目を見開いた。
太陽が徐々に黒い影――月に侵食され、光が消えていく。
やがて日光は完全に月に遮断されてしまった。
地上を闇が覆う。
そして、アシュレイは普段は隠しているヤギの角と黒い翼を出し、着物からワンピースに瞬時に着替えた。
空を見ていた紅葉をアシュレイは呼ぶ。
その声に彼女はゆっくりと視線をアシュレイへと向け、思わず唾を飲み込んだ。
「我が名はアシュタロス」
紅葉はその名を聞いた瞬間、体の震えが起こった。
ガクガクと揺れ、立っていられない程に。
冷や汗が流れ落ち、呼吸は荒くなっていく。
そんな彼女にアシュレイはヒーリングをし、体調を整える。
「こ、こわい……」
涙目の紅葉にアシュレイは胸を張る。
「恐怖公って呼ばれてますっ」
普通、人間から魔物へとなった者は他者に怖がられたら、落ち込んだり悲しくなったりするところだが、アシュレイからすればそう思われるのは誇らしいことであった。
彼女のように思えることが完全な魔族となる為の必須条件の一つといえる。
何しろ、人間に怖がられて悲しいという気持ちは人間的感情であるからだ。
「明日菜って実は凄かったんやね」
涙を拭いつつ、そう言う紅葉にアシュレイは問いかける。
「紅葉、上げて落とした方がショックで死ねるからそうするね」
「せやな。ウチ、わりと穏やかやと思うけど、我慢の限界あるし。特等席で見せてもらうわ」
深刻な状況も一瞬で好転させる、バランスブレイカー甚だしいアシュレイだからこそ可能な芸当であった。
ともあれ、これで紅葉はもはや安泰であった。