彼の名は……!



 外から聞こえる蝉の声。
 風に吹かれ、涼しげな音を奏でる風鈴。

 初夏の日差しを簾が遮り、アシュレイは天ヶ崎家の居間にてエヴァンジェリンからの報告書を読んでいた。

 中東地方へ侵攻を開始したエヴァンジェリンは侵攻開始から半年足らずでエルサレムを確保し、そこにあった聖遺物をはじめとしたその他諸々をアシュレイへと送った。
 その後、エヴァンジェリンはエジプトへと進み、本格的なアフリカ侵攻を開始した。
 勿論、元々彼女に与えた軍勢だけでは到底数が足りないので、万単位の援軍が追加されている。
 その援軍は勿論、洗脳済みの吸血鬼兵士だ。
 ともあれ、ヨーロッパを叩いた方が後ろが安全になるが、そうしなかったのはアシュレイの事情だ。

 突如として現れた吸血鬼の恐怖はヨーロッパにも広まり、また、先の教会堕落計画により、無知な庶民達はキリストなどではなく、アシュタロス……すなわち、アシュレイに祈り始めていた。
 神=アシュタロスという図式が十分に浸透したことにより、そうなった。
 そのおかげでアシュレイはその力がより増しつつあった。

 可能な限り力をつけてから、というアシュレイの要請をエヴァンジェリンが呑んだ形だ。
 ヨーロッパを攻撃すれば当然死者が出る。その分、信仰が減るのは今の段階では頂けなかった。

 正直、アシュレイはもう十分過ぎる程に強大なのだが……






「ふむ……問題ないわ」

 アシュレイは報告書の束を地獄へと送還する。
 彼女からすれば満足のいく成果をエヴァンジェリンは上げている。
 そろそろお昼かしら、とアシュレイが思ったそのとき、千奈がやってきた。
 お盆にはそうめんの入った器が。

「明日菜、今日はそうめんやで」
「またそうめん……もっとうまいもんくわせろー」

 ブー垂れるアシュレイに千奈は溜息一つ。

「わがまま言わない。毎日いいもん食ってたら体に毒やわ」
「私は王様だからいいの」
「駄目や。ここはウチの家、せやから魔王だろうが閻魔だろうが仏だろうが家主には従ってもらうで」
「生活費入れてるのにー」
「それでも駄目や。須臾と月詠呼んできてな」
「へいへいほー」

 適当な返事を返して、アシュレイはふわりと浮かび上がった。






 ふよふよと空中を漂いながら、アシュレイは裏庭にある鍛錬場へ。
 道場に行っていないとき、須臾と月詠は大抵ここで斬り合っていた。
 それは木刀などではなく真剣を使った殺し合い。
 何しろ、アシュレイというとんでもない存在がいるおかげで死んでも蘇らせることができてしまうからだ。
 ただ問題点が一つ。


「あぁ、ええわぁ……先輩、うち、いってまいそう……」

 月詠である。
 何かを斬ることに至上の快楽を感じるこの困ったちゃんは強くなる為に、自分を殺す気でかかってきてくれる須臾に非常に好意を抱いていた。 
 神鳴流の先輩であるから先輩と呼び始めた月詠であったが、今ではそこに色々な感情が混じっているのは言うまでもない。


「……いい修行相手なんだけど、なんだけど……」

 嫌そうな顔の須臾。
 彼女は一応、ノーマルである。
 だが、アシュレイに求められたら須臾はほいほい応じてしまう。
 月詠は女でアシュレイは両性具有。
 微妙な点だが、須臾にとっては譲れない一線だったりする。
 
「はい、ここでアシュ様登場。はい、死んだー!」

 唐突な声と共に須臾と月詠が地面にめり込んだ。
 びきびき、とそんな音と共に更に深くめり込んでいく。

「ちょっと重力40倍くらいにしてみたんだけども、やっぱり私が最強ってことで」

 高笑い。
 弱い者イジメ甚だしいが、アシュレイは弱いヤツを嬲るのも好きだから全く問題なかった。
 そして、アシュレイは重力を元に戻し、ついでに複雑骨折しただろう須臾を治癒する。
 月詠はひなが消滅しない限り勝手に復元するので問題がない。

「お嬢様、今度からは月詠だけにしてください」
「須臾をイジメてみたい。そんな気分があります」

 そう言われた須臾はしばし戸惑った。
 そして、彼女の頭の中で展開される桃色空間。

 よいではないかよいではないか、あーれー
 



「……いい」

 ごくり、と思わず唾を飲み込んだ須臾。
 朱に交われば何とやら、アシュレイの影響を存分に受けている彼女である。

「あーん、アシュ様~」

 そんな甘ったるい声と共にアシュレイに擦り寄る月詠。
 須臾も好きだが、持ち主であるアシュレイはもっと大好きな彼女だ。
 犬みたいに懐いてくる月詠をアシュレイが可愛いがるのは言うまでもない。

 擦り寄ってきた月詠の頭を撫でつつ、アシュレイは用件を告げる。

「昼ご飯ですって。そうめんですって」
「偶にはお肉が食べたいです」
「血の滴るお肉がええです」

 烏族の須臾は勿論、月詠もお肉大好きであった。






「何だかんだ言いつつ、全部食べたやないか」

 呆れ顔の千奈。
 卓袱台に置かれていたそうめんの大皿はすっかり空だ。

「食後の何かちょうだい。ナウく言っちゃうとでざーとぷりーず」

 明日菜の要望に千奈は溜息一つ。

「何やそれ……ちょう待っとき」

 彼女はそう答えると食器を持ち、居間から出て行った。
 それを見送るとアシュレイは月詠に抱きついた。
 柔らかい感触にその頬を緩ませる。
 そんな彼女に不満気な視線を送る須臾。
 愛する先輩の為に、と月詠が念話でアドバイス。
 そのアドバイスに従い、須臾はアシュレイに抱きつき、その感触を堪能する。
 抱きつかれたアシュレイは嫌がるどころかむしろ喜び、片手で月詠を、片手で須臾を抱き寄せた。

「……そういえばそろそろエヴァを……」


 アシュレイはふとあることを思い出した。
 悲惨な目に遭わされたエヴァンジェリン。
 そんな彼女は既に両親に復讐を果たしているが、もう一つ、果たさねばならない組織がある。

「デザートの後でいいか」

 アシュレイはそう呟くと須臾と月詠の感触を楽しむことにしたのだった。












 エヴァンジェリンは安楽椅子に腰掛けていた。
 彼女の横手には大きなベッドがあり、そこには全裸のソフィアがすやすやと寝息をたてて眠っている。
 エヴァンジェリンは彼女とベッドの上で戦った後、ゆっくりとワインを飲みつつ月夜を眺めるのが好きであった。

 エヴァンジェリンが今、いるのは中東の砂漠……ではなく、東欧に造った彼女の城だ。
 魔法による通信機という非常に便利なものがあるので、何も彼女が最前線で指揮を取らねばならない、ということはない。
 アシュレイはエヴァンジェリンに兵隊だけを与えたのではなく、必要な装備や機材の面倒までみていた。
 金持ちは太っ腹なのである。

 今のエヴァンジェリンの生活は優雅の一言に尽きる。
 必要なときだけ兵隊に指示を出し、アシュレイへの報告書を書くだけだ。
 余った時間、エヴァンジェリンは趣味の人形作りに精を出したり、ソフィアを抱いたり、鍛錬したり、読書したりしていた。


「しかし、順調に過ぎる」

 エヴァンジェリンは呟く。
 魔法使い達や傭兵達などは組織だって抵抗しているものの、それは儚い抵抗に過ぎない。
 所詮は人間。
 過酷な環境でも生き抜ける吸血鬼とは違い、酷く脆弱な上に寿命も短い。
 また、英仏は相変わらず戦争をしており、吸血鬼のことは耳に入っているものの、お互いが遠い世界の話、と思っている。
 そうでなければ即座に一時的に休戦し、対吸血鬼同盟でも結んでいる筈だ。

「つまらんな……やはり人間は愚かであったか……」

 そう言い、エヴァンジェリンはグラスを呷る。
 空になったグラスを傍のテーブルに置き、彼女は同意を求めるかのように告げた。

「そうは思わないか? 夜に淑女の部屋に忍びこむ変態さん?」

 彼女の声に僅かに空気が揺れた。
 そして現れる大柄な男。
 その顔には奇妙なメイクが。

「……さすがの私もその化粧はどうかと思うぞ」

 ピエロというよりか、どっかの秘密結社のヤラレ役とでもいった方がしっくりくるメイクを男はしていた。

「これは失礼を……何分、同輩に会ったのは初めてでして……」

 そう言いつつ、その男は頭を下げた。

「で、お前は誰だ? 吸血鬼のようではあるが……」

 エヴァンジェリンの問いに彼は頭を上げ、告げる。

「私はダイ・アモン。あなたについてはそれなりに知ってはいますよ、エヴァンジェリン・マクダウェル」

 その言葉にエヴァンジェリンはピンとくる。

「グレゴールの知り合いか?」
「彼とは良き友でしたが……少々、道が違いましてな」

 エヴァンジェリンは目を細めつつ、指を動かそうとすると……

「私はあなたの敵ではありません。むしろ、あなたのお仕えする方にお仕えしたい、と思いまして……」

 エヴァンジェリンは自らの指を動かすのをやめた。
 もし、彼が言うのが僅かでも遅かったなら、彼女の糸でもって輪切りにされていただろう。
 エヴァンジェリンは敢えてタイミングを図っていただろうダイ・アモンのお茶目さにくつくつと笑ってしまう。

「私は自らがより強く、美しくなりたい為に吸血鬼となる術を模索しましたが、グレゴールは人類の為というくだらないことの為に模索しました。そんな馬鹿げたことの為に金と労力を費やすなど無駄に過ぎません。たとえ神魔族に滅ぼされずとも、自分達で殺し合うでしょう」
「なるほど……だが、疑問はある。なぜ、私が仕えていると分かったのか?」

 その問いに彼は答える。

「簡単なことです。あそこには悪魔崇拝者として有名なレイチェルがいた。そこにあなたもいた。そして、そこを襲ったのはアシュタロス配下の、数百万を超える上級魔族」
「そして、そこで消えた私が、今になって出てきたからピンときた、と」

 彼の言葉に続くようにエヴァンジェリンはそう呟く。
 彼女の言葉に彼は頷き、肯定する。

「グレゴールと道を違えたのはあなたが吸血鬼となる5年前の話。その後、私は真祖となる術を見つけました」

 その言葉にエヴァンジェリンは数秒の間を置いて告げる。

「お前の件については私からアシュ様へ連絡しておこう」
「よろしく頼みましたよ」


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