「あーだるー……歩くのめんどくさー」
だらけきった顔のアシュレイはふよふよと宙を浮かびながら、ゆっくりと進んでいた。
彼女の後ろからは千奈が歩いている。
「宙に浮かんでる癖によう言うわ……」
季節は初夏。
6月も終わりに近づいた本日、晴れてはいるものの、湿気が多く、非常に蒸し暑い。
纏わり付くような暑さに千奈は珠のような汗を額に浮かべている。
「というか、耐熱結界とかそういうのを使えばいいのに」
「そういうことをすると体が慣れてまって、やめたときにだるくなるんやで」
「じゃあ着物やめればいいのに」
「陰陽師の正装や」
「で、それはいいとして……何で狗族とか烏族とかそういうのに挨拶しないといけないの?」
「どっちも陰陽寮に協力的やからな。ご機嫌取りや」
そういう千奈にアシュレイはこれみよがしに溜息を吐いてみせる。
「弱いって罪ね。私みたいに超強くなれば相手が勝手に従うのに」
「いや、明日菜は規格外過ぎるから。誰もそんな強くなれへんから」
「5000万年くらい修行すれば誰でもそれなりにはなるわ」
「時間の単位が明らかにおかしいやろ」
「ちなみに私はたぶん3億年くらい生きてるわ」
その言葉にもう何も言わないことにした千奈。
アシュレイに構うと余計暑くなる。
「思うんだけど、誰かを守ろうとかそういうので自分が強くなろうって思うでしょ?」
唐突なアシュレイの言葉。
千奈は無視してもよかったが、無視すると今度はうるさくなる。
仕方がないので彼女は構うことにした。
「せやな」
「でも、そうなっても自分の大切な人が傷つけられるとかそういうこともあるでしょ?」
アシュレイの言葉に千奈は再び肯定する。
「それってさ、結局強くなってないと思うの。で、誰かを守る強さが本当の強さとかそういうのは存在しないわ。要は泣く子も黙る圧倒的な力を身につければ、誰もその身内には手を出してこないわ。手を出した場合の危険度が高すぎるから。私、数千年前に一回だけあったけど、それから戦争中を除けば今まで誰も手を出してこないわ」
「いや、明日菜みたいに人間はなれへんから」
至極最もな答えにアシュレイはブー垂れる。
「まあ、あんさんの尺度は人間とはえろう違うからしょうがないかもしれんけどな」
一応フォローする千奈だが、それでもアシュレイは膨れっ面だ。
「夜はあんなに乱れるのに……」
ポツリと呟いたアシュレイに千奈は顔を真っ赤に染める。
「昼間っから何言うてるんや!?」
「昼間からもいいと思うの」
くすくすと笑うアシュレイ。
彼女はちょうど2週間前、千奈を美味しく頂いている。
そこで初めて女の快楽を知った千奈は以後、アシュレイに抱かれる度に痴態を披露していた。
「と、ともかく、もうつくで!」
誤魔化すようにそう言う千奈だったが、アシュレイは笑い続けていた。
山間にある狗族の里はやはり小規模であった。
総人口は500人にも満たない。
千奈は里に着くや否や、アシュレイを引っ張って狗族の長に挨拶を行った。
その後、政治的な話が展開されたのでアシュレイはそそくさとその場を後にしていた。
「……犬耳か」
あちらこちらにいる狗族を見てアシュレイはポツリと呟いた。
彼女の視界に入っているのは真っ黒な耳と尻尾の獣人。
老若男女様々であるが、やはり一番目がいくのが女の子だった。
「女の子でも持って帰ろうかしら」
じーっと10代前半くらいの女の子達を眺めつつ、そう呟く。
その子達は珍しい出で立ちのアシュレイに好奇の視線を送っている。
今の彼女は服装こそ、千奈の用意した着物だが翼と角が生えている。
翼は背中の部分にわざわざ穴が空け、そこから出していた。
「なぁなぁ、あんさん誰や?」
やがて1人の女の子が話しかけてきた。
くりくりとした目が印象的だ。
「私は明日菜よ。今さっき、長老だかの家に入ってった人間の式神」
「式神なん!? 式神って人間に負けたヤツがなるんとちゃう!?」
「いや、それはあくまで1つの場合でしかないと思うんだけど……」
契約で力を貸すとかそういう場合もある。
しかし、まだまだ子供の彼女達には分からなかったらしく、人間に負けたということが一人歩きしていってしまう。
無闇に魔力を垂れ流す、ということをアシュレイはしない。
そんなことをすれば周囲にどんな影響があるか、わかったものではないからだ。
故に今の彼女はただの角と翼がある変わった妖にしか見えない為に、妖怪として……というよりか、化物としての格の違いが彼女達には理解できない。
「何や何や、人間に負けたんか。情けないヤツやなぁ」
騒ぎを聞きつけた男の子がやってきた。
その第一声から腕白小僧であることが容易に窺える。
「いや、負けてないから。というか、契約で力を貸しているだけだから」
「ほう……そないに言うなら、俺と勝負しようや。俺は犬上小次郎や!」
構えを取る少年――小次郎にアシュレイは盛大な溜息を吐く。
「じゃ、一瞬で勝負をつけるわね」
そう前置きし、アシュレイは告げる。
「我が名はアシュタロス」
一瞬の間を置いて、小次郎が、周囲の女の子達が地面に倒れ伏す。
その体は小刻みに震え、恐怖の表情を浮かべている。
面白いことに彼らはまるで犬が服従のポーズを見せるかのように、腹を見せている。
「これで分かってくれると平和的なんだけど、分かってくれないなら、その腸を美味しく頂くしかないわ」
その鋭い牙を見せつければ彼らの震えは更に大きくなる。
「……明日菜、何してるん?」
後ろからそんな声。
アシュレイが振り返ればそこには千奈の姿が。
彼女はこの状況がどんなものか分からないらしく、首を傾げている。
「ちょっと遊んでたのよ。そこの犬達とね」
そう告げ、アシュレイはにこやかな笑みを浮かべ、ゆっくりと小次郎に近づき、その腹を撫でてやる。
やがて彼女は男を撫でるよりも、と近くにいた女の子のお腹を撫で始めた。
「あんさんがすると卑猥な光景にしか見えへんわ……」
「ここだけの話、私は犬を飼ってるわ」
「その犬はどんな犬や?」
「頭が3つあるケルベロスっていう犬ね」
「普通の犬やないことは確かやな。どう見ても妖怪やろ……」
「まあ、ちょーっと大きくて、走ると風よりも速いことは確かね。あと、口から火とか氷とか雷とか毒とか吐いたりする」
「……そんなのが日の本におらんでよかったわ」
想像した千奈は体を震わせる。
「で、もう終わったの?」
「せやで。あとは烏族の里や」
「もう空飛んでく?」
「駄目や。歩いていかんと侵入者と間違われる」
そう言われるとアシュレイは何も言えない。
似たような経験があったからだ。
「な、なぁ……」
下から聞こえた声にアシュレイと千奈は思わず視線を下げる。
小次郎が片膝をつきながらもどうにか立ち上がろうとしていた。
「俺をあんたの弟子にしてくれ!」
「……ほんまに何してたん?」
小次郎の言葉にジト目でアシュレイを見つめる千奈。
その視線を気にせず彼女は告げる。
「小次郎とやら。あなたを女として調教していいなら、その提案を受けよう」
「お、女として調教やと……?」
あんまりといえばあんまりな条件に小次郎は目を剥く。
「そうよ。髪を伸ばして女の服を着て、男のまま女としての快楽を味合わせて、女の言葉遣いで、体は男のまま、心が女になるの」
「……さすがにそれは無理や」
「じゃ、駄目ね」
これ以上いては面倒くさいことになる、と千奈は悟った。
そして、彼女はアシュレイが、あるいは小次郎が次の行動を起こすより早く告げる。
「ともあれ、行くで。ほなな」
千奈はアシュレイの手を引っ張り、そそくさとその場から立ち去ったのだった。
「こんのアホッ! 何手ぇ出しとるんや!」
「向こうから喧嘩売ってきたんだからしょうがないじゃない。それに私があなたに負けて使役されてるって話になってね」
千奈はその言葉に何も言えない。
彼女とアシュレイは対等な関係などではない。
天秤はアシュレイの方に常に傾いている。
それは代価を全て得た状態である今も同じことだ。
千奈にできることは唯一つ。
アシュレイにお願いすることだけだ。
「明日菜……これはお願いや。ウチの為にもあまり騒ぎを起こさんで欲しい」
「じゃあ、あまりにもイラッときたら千奈を攫って地獄に連れてけばいいのね」
アシュレイとしては何も地上に留まる必要はない。
別に地獄で千奈とよろしくやっても全く問題がなかった。
「そういうの抜きでお願いや……」
千奈は深々とアシュレイに頭を下げる。
その様子にアシュレイは数秒思案し、口を開く。
「そこまでするならしょうがないわ。ほら、私って優しい魔王で通ってるし?」
言うまでもなく、彼女に優しい魔王などという通り名はない。
ともあれ、アシュレイとしても女の子を悲しませるのは本意ではない。
故に千奈のお願いを受けることにしたのだ。
「ホンマか……?」
「魔王は嘘つかないわ。だけど、あまりにもイライラする場合は別よ?」
「おおきに……ほんまおおきに……」
「だけど、とりあえず鬱憤晴らしたい。そう思うアシュレイちゃんです。程良く汗をかいた千奈の素肌を頂きたい」
「へ……?」
千奈が顔を上げたときにはもう遅かった。
結界でいつのまにか周囲からは隔離され、アシュレイは好色な笑みを浮かべ、告げる。
「いただきます」
そして、2時間後――
「昼間は嫌や言うたのに……」
僅かに頬を朱に染めて、俯き歩く千奈。
その横を満足気なアシュレイが歩く。
2人は手を繋いで仲良く烏族の里へと向かっていた。
「いいじゃないの。涼しくはなったでしょ?」
そう問うアシュレイに千奈は僅かに頷く。
情事が始まる前に結界内の湿度と温度を弄り、過ごしやすい環境をアシュレイは構築していた。
それでも汗は出、また体が汚れたりしたが、アシュレイが情事後に水を出し、2人で仲良く水浴びをすることでさっぱりとできた。
「あそこかしら……」
アシュレイの言葉に千奈は顔を上げた。
2人から数十m先には道を挟むように烏の像が2体立っている。
「あそこや。あそこの像の間は結界が張られておらへんのや。あと、里に入った瞬間に当番の烏族が出てきて用件を尋ねられるから、反射的に攻撃せんでな」
「わかったわ」
そんなこんなで2人は烏族の里にたどり着いたのであった。