激しい温度差

「馬鹿な……五芒星多重結界が抜かれるなど!」

 グレゴールは窓から外を眺め、遠くに見える惨状に思わず怒鳴った。
 想定されていた悪魔達では彼が教会と協力し、構築した五芒星多重結界を破ることはできない。
 だが、現実はその結界は脆くも破れ、その中にあった城壁と城下町に多大な損害を与えている。
 エヴァンジェリンもまた窓から同じように外を見ていた。
 そして、その惨状からどういう魔法が使われたのか推測する。

「燃える天空?」
「いや、違うな……おそらくは貫通した後に爆発する火系統魔法であろうが……」

 同じ魔法使いということでちょっとした議論を始める2人。
 そんな2人は底冷えのするような魔力を感じ、再び窓の外を見つめた。

 そして、彼らは見た。見てしまった。

 優雅に翼を広げ、空を飛ぶ翼の生えた人影を。
 その人影は城へと迫っている。

「悪魔だ!」

 グレゴールが叫んだ瞬間、その人影目がけて地上から、あるいは城壁や見張り台から数多の攻撃魔法が、矢が集中する。
 彼らは先の攻撃を辛くも逃れた傭兵や魔法使い、あるいは教会の聖堂騎士団だ。
 着弾地点にいた人間は蒸発したのは言うまでもなく、また広範囲を衝撃波が襲ったが、彼らは結界の呪が込められた魔法符や危険と感じた魔法使いたちが張った結界によりどうにか生き残っていた。

 澄み渡った空に色とりどりの花が咲き乱れ、轟音が響き渡る。
 その花々は人間をたやすくミンチに変えてしまう死の花だ。
 濛々たる煙に包まれた目標に対して、攻撃が一時的に止む。
 やがて煙から人影が飛び出してきた。
 だが、先ほどと全く変わらない様子だ。
 まるで見せつけるように先ほどよりも速度を落として城へと近付いている。

「無傷!? そんな……あれだけの魔法を食らって!」
「我々の常識を覆す上位悪魔がやってきたのか……」

 グレゴールとエヴァンジェリンの脳裏に過ぎる名前があった。

 ――アシュタロス――

 地獄の大公爵、あるいは王とされる強大な悪魔。
 人間がマトモに戦って敵うような相手ではない。

「来い! 一刻も早くなってもらわねばならん!」

  グレゴールは有無を言わさず、エヴァンジェリンを引っ張り、城に5つある尖塔のうち、1つへと向かった。





 城から500mの地点に設けられた最終防衛ライン……すなわち、5つ目の城壁。
 そこには、この日の為に創設された魔法使いの精鋭部隊が展開していた。
 老若男女問わず、実力者のみで構成されたその部隊はグレゴールにとっての切り札だ。
 その総数122名。
 僅か122名と侮ってはいけない。
 彼らがイギリス・フランスのどちらかの側に加担すれば百年戦争の勝敗を決めてしまう。
 そんな戦略レベルで動ける連中であった。
 無論、彼らの他にも多数の魔法使いの部隊がこの城と城下町に展開している。

「来るぞ!」

 誰かが叫んだ。
 その声に彼らの指揮官はただ慌てずに念話で指示を下し、またこの部隊所属以外の魔法使いにも連絡する。

『予定通り例の合成魔法で一撃で決める。参加者以外の魔法使いは全力で結界の展開を頼む』

 部隊の全員がたった一つの魔法を唱え始めた。
 熟練者であっても、その詠唱速度には多少バラつきがあるが、訓練の賜物で彼らの詠唱速度はほぼ同じ。
 合成魔法にとって致命的なタイムラグは無視できるレベルにまで達していた。

「契約に従い、我に従え、炎の覇王。来たれ、浄化の炎、燃え盛る大剣」

 膨大な魔力と共に火の精霊が活性化し、周囲の温度を上げていく。
 彼らの顔からは汗が吹き出すが、それは熱気により僅かな時間で蒸発してしまう。
 練習では脱水症状で倒れる者も多くいたが、各種結界をあらかじめ張っておくことでその問題は解決した。

 今や、彼らは122人で1人であった。

「ほとばしれよ、ソドムを焼きし火と硫黄。罪ありし者を、死の塵に」

 夥しい数の火の精霊達は今や光となって現れ、今か今かと引き絞られた弓から放たれる矢の如く、待っている。
 アシュレイが聞いたら憤慨する詠唱だ。
 だが、人類にとっては旧約聖書に出てくる神の火と見紛う程に、この魔法は殺傷範囲・威力共に桁違いであった。

「燃える天空」

 瞬間、世界から音は消え、全てが白く染まった。
 太陽の如き輝きを持った全高数百mにも達する超巨大な白い火球が出現し、ついで圧倒的な衝撃波が襲いかかる。
 だが、これすらも予期されていた事態。
 衝撃波はこの魔法に参加しなかった他の魔法使いたちが張った結界にぶち当たり、逸らされていく。

 複数の術者が同時に同じ魔法を唱えることにより、その効果を数倍から数十倍に高めることができる。
 ただ、問題は詠唱速度や発動タイミングまでもほとんど同じにせねばならないこと。
 もし、ズレてしまえば威力が通常のものが複数、発射される。
 だが、このやり方は格上の存在を倒しうる現状では唯一の手段であった。



 それから数秒程で火球は消え、あとには巨大なキノコ雲が残る。
 空中爆発であったこと、そして城下町等にいた魔法使いたちが結界を展開したことで地上の被害は最小限に食い止められた。


「なん、だと……」

 指揮官は、否、その場にいた全ての人間は信じられなかった。
 何事もなかったかのように、飛んでいた。

 これにより、事実上、魔法使い達にその存在を倒せないということが証明されてしまった。
 もっと人数を集めてやればあるいは彼女の防御結界を貫けるかもしれない。 
 だが、それはもはや不可能なことだ。

「悪魔め……」

 誰かが忌々しげに呟いたその瞬間、その悪魔が腕を振った。
 瞬間、巨大なハンマーに殴られたかのような衝撃が彼らに襲いかかり、その肉体を一瞬で挽き肉に変えていく。
 結界は城壁の周囲にも張り巡らされていたが、そんなものは紙程の効果も発揮せず、一瞬で崩壊し、威力を減衰することすらできなかった。

 一瞬で彼らを含め、悪魔の正面にあった城壁ごと破壊された。
 瓦礫と肉片が転がる城壁であったところに悪魔は敢えて地上に降り立った。

 より恐怖を味合わせてやろう。より絶望を味合わせてやろう。
 そういう魂胆だ。


 だが、ここにいるのは魔法使いだけではない。
 悪魔退治を専門とする連中がここにはいた。

 彼らは対魔法処理の施された法衣や鎧を身に纏い、片手には祝福の施された剣やメイスやフレイル。
 そして、もう一方の手には盾を持ち、整然と列をなし、聖書を暗唱しながらやってくる。
 彼らは死を恐れていない。
 例え死んだとしても主の下へ逝けるのだと信仰しているからだ。

 悪魔――アシュレイはそんな連中を物珍しそうにじーっと見ていた。
 ああいう信仰者が、私にももっと欲しい……そんな風に思ってしまう。

 彼女のいる場所から城までは僅か500mしかない。
 そして、戦闘も考慮されているらしく、通りが広い。

 アシュレイは不敵な笑みを浮かべ、彼らに突っ込んだ。
 人間の動体視力では到底負えぬ高速。
 彼らは面白いように宙を舞う。
 装備も含めれば100kgを超える大人が少女に跳ね飛ばされて、空を舞う光景はシュールであった。

 勿論、跳ね飛ばされた人間は全員死亡している。
 当てられた衝撃によって一瞬で首の骨などの様々な骨が折れてしまうのだ。
 比較的軽装な、法衣にメイスを持っている者もそれは例外ではない。

 そして、彼らはアシュレイの姿を捉えることもなく全滅してしまった。
 例え捉えたとしても、彼女に攻撃を当てることは極めて困難だっただろう。


 邪魔者と呼ぶにもおこがましい……敢えて言えば、虫を排除した彼女はゆっくりと歩き出した。








 やがてアシュレイは広場に出た。
 そこは城と城壁の中間くらいにあった。
 広場にあったモノを見て、彼女は思わず目を細めた。

 エナベラの子孫――レイチェルが気を失ってそこにいた。
 ただし、彼女は全裸で逆さまの十字架に逆磔にされ、両手の甲と両足の甲には杭が打ち付けられ、止めどなく血が流れている。

 アシュレイは数多の魔法使いと思しき者が広場の周辺にある建物にいるのを感じつつ、近寄った。
 瞬間、彼女の上下左右展開される召喚陣。
 召喚陣から大量に出てきたのは無色透明で油のような液体であった。
 それらは彼女に容赦なくふりかかる。



 隠れていた魔法使い達は喝采を叫んだ。
 幾ら悪魔でも濃硫酸を大量にかけられては無傷で済む筈がない。

 だが、それはあくまで人間の先入観に過ぎない。

 アシュレイは何事もなかったかのように、全ての硫酸を大気中に存在する膨大な水分子と強制的に結合させ、生じる発熱などを結界で包みこみ、強引に希釈してしまった。

 
 呆気に取られたのは魔法使い達だ。
 彼らは目の前で起こった現象を信じることができなかった。
 如何に魔法使いといえど、大気中に存在する水分子そのものと硫酸を結合させることなどできない。


 そうこうしているうちにアシュレイはレイチェルの束縛を全て外し、彼女に治癒魔法を掛けた。
 それは人間の魔法使いの常識を覆す魔法であった。
 彼女の傷は数秒と経たずに全て消えて無くなってしまう。
 高位の治癒術師であれば可能かもしれないことを、アシュレイは呪文すら唱えることなくやってしまった。
 






 やがて、レイチェルがその瞼を開けた。
 灰色の瞳とアシュレイの紅い瞳が交差する。

「アシュ様……ですね……?」

 レイチェルの問いかけにアシュレイは頷いた。

「ようやく、お会いできた。私の、私達の旅はたった今、終わりました」

 彼女はその瞳に涙を溜め、アシュレイに抱きついた。
 抱きつかれたアシュレイは彼女の背中に片手を回し、もう一方の手で彼女の頭を抱く。

「ごめんなさい。時間が掛かりすぎてしまったわ」

 アシュレイから出たのは謝罪の言葉。
 悪魔や神からすれば数千年などちょっと長い程度でしかないが、人間からみれば途方もない年月だ。

「だから、私は謝罪の意味も込めて、あなたの願いを叶えましょう。どんな願いであっても。あなたが望むなら、あなたとその一族を傷つけた全ての人間達……人類そのものを例外なくこの世から消し去りましょう」

 レイチェルの願いは決まっていた。
 彼女が何よりも望むこと、それは……アシュレイの傍にいることだ。

「私は永遠にあなたの傍にいたい。それが私の願いです」

 レイチェルはその瞳から涙を零れ落ちさせながら、アシュレイの耳元でそう告げた。

「それだけでいいの?」
「……できるならば、もう一つ。エヴァンジェリンという子をお助けください」

 その言葉にアシュレイは記憶を覗かせてもらう、と断り、レイチェルの記憶を読む。
 そして、読み終えた彼女は告げた。

「エヴァンジェリンを犠牲者にはしないというのはいいけども、彼らのやっていることは間違いではない」

 アシュレイとしてもグレゴールや教会上層部の気持ちはよく分かる。
 彼女が元人間であったからこそ理解できた。

 人間は自分よりも強い者……腕力だけに限らず、頭の良さや経済力などを持った者に嫉妬する。
 人間で誰かに嫉妬したことがないという者は存在しないだろう。

 だが、余りにも強大な力を持った者に対して、嫉妬はせずに逆に恐れる。
 そして、そのときは強大な力を持った者に対して人間は団結し、対抗しようとする。
 これは人間だけでなく、生物ならば必ず持っている生存の為の防衛本能だ。
 それには犠牲というものが付いて回る。

 例えば圧政に苦しむ民衆が、膨大な犠牲者を出しながらも革命を成し遂げるように、目的の前には全てが肯定されてしまう。
 もし、革命を望み、犠牲者を出しながらも戦い続ける民衆に部外者がそれはやり方が間違っていると言っても効果などないのは火を見るより明らかだ。
 所詮、そうやって言える輩はただ首を突っ込みたいだけの輩であり、自己満足に過ぎない。
 誰だって死ぬのは怖いし、殺し合いなんぞしたくはない。
 だが、そうせねばならない時はやらねばならない。
 やらねば未来が黒いものとなってしまうからだ。


 アシュレイの言葉にレイチェルは告げた。

「私もそう思います。アシュ様は悪魔で私はその信者ですから」
「ええ、どう言い繕っても私は悪魔。それは厳然たる事実よ。そして悪魔は闇、影の存在。そんなものをあなたは信仰している。異端だわ」

 その言葉にレイチェルは頷き、肯定する。

「まあ、彼らが悪魔を倒すために悪魔を作るという解答は正解よ。神々では悪魔を完全に倒すことはできないもの。それが相剋」

 だけど、とアシュレイは続ける。

「それは彼らが完全なる光の存在であるからで、不完全な光であったり、同じ闇のものであるならば悪魔を倒すことができる」
「不完全な光……人間……ですか?」
「そうよ。人間は光と闇、両方の性質を持っているから悪魔を倒すことができるの」

 アシュレイが言った瞬間、周囲から手に剣を持った者達が飛び出してきた。
 彼らは皆、魔力でもって身体強化を施した魔法剣士達。
 彼らはアシュレイ自身が人間が悪魔を打ち倒せると言った言葉を信じたのだ。
 悪魔の言葉を信じるとは何とも皮肉である。

 アシュレイと、ついでにレイチェルの首を獲らんと猛然と迫り……一瞬で彼らは溶けて消えた。
 
「え……」

 レイチェルはまじまじと魔法剣士達がいたところを見つめるが、そこには何もない。

「腐食の魔眼よ。私が睨みつけただけで人間なら骨も残さずに腐らせ、溶かすことができるの」

 アシュレイはそう説明し、さらに続ける。

「こういう感じで、人間だとどんなに鍛えても弱すぎるから実質的に上位の悪魔を倒すことはできないの。だから、人間から悪魔になって悪魔を打ち倒すというのが最も現実的なやり方ね」

 なるほど、と頷くレイチェルにアシュレイは「もっとも」と続けた。

「例え悪魔になったとしても、戦う相手が私クラスになると、余程の手抜きを私がしていないと攻撃を当てることもできないから……まあ、無理ね」
「つまり、結局無理ってことですか?」
「うん。ぶっちゃけて言えば無駄な足掻き。時間と金と労力の無駄」

 ハッキリと言われてしまった。
 グレゴールが聞いていれば顔を真っ赤にして怒っただろう。

「で、まあこんな風に時間を潰しているとエヴァンジェリンが吸血鬼化しちゃうんだけど、治せるから別にいいわね」

 人間達の伝承によれば吸血鬼となった者は二度と人間には戻れないとされている。
 だが、それは単純に人間達に力がないからであって、主神や魔王ともなれば時間遡行を行い、魂レベルで人間であった頃に時間を戻せば簡単に治せてしまう。
 そんなレベルであるから、聖書をはじめとした色々な神話で神々は全知全能とされてしまうのだ。

「アシュ様、何だか私はとても虚しくなってきました……人間では想像もつかない世界なのですね」
「ま、そういう世界なの。私の傍にいたいなら慣れておきなさい。片手間で星を壊せちゃうような連中がゴロゴロいるし、あなたも知ってるベルゼブブとかサタンとかとも知り合いだし」

 レイチェルは自分の常識が全部破壊されたことを感じた。
 狂信的な彼女であっても、もう次元が違い過ぎてどう反応していいかわからなかった。

「で、レイチェル。あなた、私の眷属にしていい? 簡単にいえば吸血鬼。あ、これ闇の福音っていう計画の一環なんだけども」
「あ、はい。どうぞ」

 軽い口調で言われたのでレイチェルは簡単に答えてしまった。
 ハッと我に返って、アシュレイをまじまじと見つめる。
 見つめられた方はニヤニヤと笑っている。

「だって、人間じゃ寿命がすぐだし、私はあなたの願いを叶える為に最善を尽くさねばならないの」
「えっと、その、できれば……」

 レイチェルは頬を朱に染め、顔を逸らしつつ、ごにょごにょと小さな声でアシュレイに告げた。

「人間のときにアシュ様に抱いて欲しい……です……そ、その後なら吸血鬼に……」

 健気であった。
 その健気さがアシュレイには堪らない。
 
「勿論それでいい。むしろそれがいい」
「あ、あの! わ、私、その……レイプとかされて……その、とても緩いですけど……」
「大丈夫、悪魔の快楽を味合わせてあげる」

 とても呑気な2人であった。
 レイチェルとしてはアシュレイがエヴァンジェリンを助けてくれることは確定している。
 ならばこそ、もう何も心配はいらなかった。

 













 一方その頃――


「どうにか間に合ったな……」

 尖塔の最上階でグレゴールはポツリと呟いた。

 伝令が餌として広場に逆磔にしたレイチェルに対し、アシュタロスは足を止め、その隙に硫酸をかけたが、効果なしと言ってきたときは彼はもう間に合わないと観念した。
 だが、それから10分以上、アシュタロスはその場でレイチェルと会話し、一歩も動いていないという報告がやってきたときは喝采を叫んだ。

「……だが」

 グレゴールはベッドで眠っているエヴァンジェリンに目をやる。

「もうそろそろの筈なんだが……」

 解析魔法で探っても、極めて覚醒に近いと出ている。
 だが、中々彼女は起きてこない。

「うーむ……どうしたものか……」

 彼がエヴァンジェリンから目を背けたその瞬間。
 ずぶり、と肉に何かが突き刺さる音。
 彼はゆっくりと後ろに視線をやった。

 そこにはエヴァンジェリンがいた。
 血のように紅い瞳を爛々と輝かせ、彼女はグレゴールの背中に手刀を突き刺していた。

「き、さ……!」

 憤怒の形相となったグレゴールにエヴァンジェリンは何も語らず、ただ彼の肉体内部で手を動かし、その心臓を掴んだ。

「死んでも許さない。絶対に」

 そう告げ、エヴァンジェリンはそれを潰し、手を抜いた。
 ゆっくりと彼の体は床に倒れ、空いた穴から血がとめどなく流れ出る。

 そして彼女は……

「どうしよう……」

 困っていた。
 グレゴールの死体を敢えて踏みつけながら。

「レイチェルは助けないと……でも、寝た振りをしているときに聞いた話だと、何だかアシュタロスといいムードになっているみたいだし……」

 どうしたものか、と考えながら、グレゴールの死体をぐりぐりと踏みつける。

 彼女は自らが吸血鬼となったことに対しては特に感慨はない。
 どちらにしろ、あの状況ではどう足掻いても無駄であったからだ。
 魔力を封じられては彼女は単なる10歳の子供でしかない。
 ならば受け入れてしまおう……そういう一種の諦めであった。

「あら、もう終わっちゃったの」

 そのとき響いた聞き慣れぬ声。
 声の方向を振り返ればベッドの上にいつの間にか見慣れぬ少女が座っていた。
 その顔は可愛らしいが、少女の頭にはヤギの角、背中には黒い翼があり、悪魔であることが一目瞭然であった。
 エヴァンジェリンは問いかける。

「あなたは……アシュタロス?」
「うん。私がアシュタロス。気軽にアッちゃんって呼んでもいいわよ?」
「謹んで遠慮しておくわ……」

 妙に軽いアシュタロスことアシュレイ。
 言うまでもないが、彼女は長年探していたエナベラの子孫が見つかって、非常に機嫌が良かった。

「レイチェルはもうここにはいないわ。私が転移させたの。安全なところに」

 エヴァンジェリンが何か言うよりも早く、アシュレイはそう告げた。
 機先を制されたエヴァンジェリンに彼女は更に告げる。

「あなた、吸血鬼になっちゃったみたいだけど……人間に戻りたい?」

 エヴァンジェリンはまじまじとアシュレイの顔を見つめた。
 
「できるの? そんなこと」
「うん。簡単に。5秒で終わる」

 そう言われてもエヴァンジェリンは悩んでしまう。

 もはや彼女に人間としての居場所はない。
 この地を離れて暮らすにしても、10歳の子供では生活費を稼ぐのもままならない。
 魔法を使って稼げないこともないが、それではすぐに足がついてしまうだろう。
 エヴァンジェリンはそれだけ優れた資質を持っていた。

 ならばこそ、とエヴァンジェリンは決断した。

「あなたの庇護を受けたい。部下になってもいい」

 アシュレイはその答えを予想していたかのように微笑んだ。

「人間殺せる? 悪いことできる?」
「もう1人殺した。それに……私は人間が嫌いよ」

 エヴァンジェリンは吐き捨てるようにそう告げた。
 彼女からすればもう人間なんて到底信じられなかった。
 アシュレイは頷きつつ、エヴァンジェリンの体を魔法で解析する。
 肉体だけに留まらず、その魂までも。
 そして、彼女は見つけた。

「んー……微妙に不完全な吸血鬼ね。たぶん、肉体的に成長しないけど……」
「……それはさすがに嫌なんだけど」

 永遠に10歳のままというのは誰だって嫌だろう。

 アシュレイはどうしたものかと悩む。
 彼女がエヴァンジェリンに自らの血を与えれば術式が上書きされて、完全な吸血鬼となるだろう。
 いわゆる真祖といわれる存在に。
 だが、それは闇の福音計画に直結する。

 闇の福音計画はアシュレイの力を人間に与え、吸血鬼とするというものだ。
 その為に彼女は数百年前からリリスやリリムを含めた全ての淫魔に命じ、人間界から様々な女を堕落させ地獄に連れてこさせている。
 彼女達の中で特に優秀で向上心があり、アシュレイに絶対の忠誠を誓う者を選び出し、人間界を裏から支配させる。
 その支配の方法は経済とマスメディアを抑え、ついで食料を抑えるというもの。
 これで人間界は意のままに操ることができるだろう。 

 アシュレイはその人数を7人と決めていた。
 7は魔術的に見た場合、完全なる数字であるからだ。
 その候補は既に1人いる。
 それは言うまでもなく、レイチェルだ。


 ともあれ、アシュレイはエヴァンジェリンに力を与え、もし反乱でも起こされたら自分の株が下がってしまうことを恐れた。
 故に彼女は提案する。

「100年くらいあなたをテストさせて欲しい。私を裏切らないという保障はどこにもないもの」
「当然ね。私としても見ず知らずの輩をすぐに信じたりはできないもの……ところで、あなたって力を抑えているよね?」

 エヴァンジェリンの問いにアシュレイは頷く。

「やっぱりね。もし全開だったら、私は喋ることすらできなかったと思う」
「魔王だもの。ぽっと出なんかイチコロだわ……でも、あなたはその言葉遣いでも許してあげる。だって、10歳だもんね」

 その言葉にエヴァンジェリンはむっと頬を膨らませる。

「何よ。あなただって見た目、私よりちょっと年上なくらいじゃない」
「だって体なんて好きに変えられるんだもの。14歳ボディが一番気に入ってるの」

 うーうー、と唸るエヴァンジェリンにアシュレイは不敵に笑う。
 やがて、エヴァンジェリンは思い出したように彼女に告げる。

「私、個人的に復讐したいヤツがあと2人いるんだけど」
「両親?」
「うん。どんな理由があるにせよ、許せないわ。目には目を歯には歯をって言うし」
「復讐はどんどんやりなさい。やられた相手はぶっ飛ばしておかないと駄目よ」

 人間なら止めるところだろうが、逆に推奨しちゃうのが悪魔であった。

「あと、私のことは好きに呼びなさい。さて、行きましょうか」
「地獄?」
「うん。ようこそ、悪魔の世界へ。我々はあなたを歓迎するわ」

 アシュレイが両手を広げて満面の笑みでそう言った。
 嬉しいような悲しいような、複雑なエヴァンジェリンであった。
 そんな彼女を見つつ、アシュレイは念話でもってテレジアに命じる。

『ここに何も残すな。全てを灰塵とかせ』

 テレジアはその命を受け、待機させていた41番目の軍団を出撃させる。
 上級魔族でもって構成されたその軍勢は1時間と経たずにこの地を覆い尽くし、全ての人間をこの世から消すだろう。

 そして、アシュレイはエヴァンジェリンの手を取り、その場から転移したのだった。

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