2匹の獣がお互いに睨み合っていた。
片やケルベロス、片や白面金毛九尾の狐。
東西妖怪をある意味代表している両者は一歩も譲らない。
2匹の間で念話による聞くに耐えない罵詈雑言の応酬が繰り広げられる。
そんな2匹の横で、アシュレイはエヴァンジェリンに地獄について説明をしていた。
説明を受ける彼女は聞きながらも、飾られている様々な調度品に見入っている。
彼女達は今、アシュレイの城の玄関ホールにいた。
エヴァンジェリンと共に地獄にやってきたアシュレイはすぐさま妙神山に取って返し、玉藻と陣風を回収していた。
なお、先に転移魔法で送られたレイチェルは外傷こそないが、精神的な疲労を癒すために用意された客室のベッドでゆっくりと眠っていた。
「何と言うか、本当に地獄なのね……」
エヴァンジェリンは一通りの説明を聞き、そう呟いた。
「生身で、かつ自分の意志で地獄に落ちた第一号ね。レイチェルは私と関係があったから除外するの」
「全然嬉しくない……」
そんな彼女にアシュレイは告げる。
「で、早速だけど……あなたには加速空間に入ってもらうの。教師を用意したから、とりあえず勉強してね」
アシュレイの言葉にエヴァンジェリンは目を丸くした。
テストするとは聞いたが、何でそんなことをするのかさっぱり分からなかった。
その疑問を見透かしたかのように、アシュレイが告げる。
「私のところにずっといるかどうかわからないし、最低限、生きていくだけの力は与えるわ」
エヴァンジェリンはまじまじとアシュレイの顔を見つめてしまう。
彼女からすればあのアシュタロスがこんなに親切にしてくれるなんて、思ってもみなかったからだ。
「あなたは自分の容姿に感謝すべきだわ。子猫みたいに可愛らしい……そうね、不死の子猫ってミドルネームをつけるべきだわ」
「えっと、それって皮肉?」
エヴァンジェリン的にはアシュレイの方がよっぽど可愛らしかった。
そんな彼女にアシュレイは溜息を吐いてみせる。
「まぁ、自分のことはわりと見えないものだしね……ともあれ、行こうか。あ、もう不死の子猫……アタナシア・キティで決定だから」
「アタナシア・キティ……悪くはないけど……」
歯切れの悪い彼女にアシュレイはにっこりと笑った。
「何か文句ある?」
そう言われてはエヴァンジェリンとしては頷くしかなかった。
断ったら怖かった。
そして、2人は加速空間に入った。
この加速空間はアシュタロスの置き土産を参考に、アシュレイが暇を見つけてつくった1時間が1年となるものであった。
なお、これはリゾートも兼ねており、山あり谷あり海あり砂漠あり、と色々なフィールドが存在した。
澄み渡った空。
広がる草原。
駆け抜ける爽やかな風。
エヴァンジェリンは風景のあまりの変わり様に呆然としてしまう。
彼女は前もってアシュレイから加速空間に行くということは聞かされていたが、彼女が当初想像していたものと正反対であった。
「私がお前の家庭教師のエシュタルだ」
呆然としていた彼女にそう告げるのはぺったんこな胸を張ってみせる子供形態のエシュタル。
今の彼女はエヴァンジェリンと同じか1、2歳年上にしか見えない。
何か言いたそうな視線をエヴァンジェリンはアシュレイに送るが、彼女はにこにこと笑っているだけだ。
「さて、アシュ様から粗方聞いている。資質は優れていると聞くが……ハッキリ言ってお前が学んだ人間魔法は我々にとっては子供の玩具に等しい」
そりゃそうだろうなぁ、とエヴァンジェリンは思う。
エシュタルは更に続ける。
「そもそもお前達人間の使うラテン語を主体とした魔法は我々魔族と神族が協力して作ったものだ」
その言葉にエヴァンジェリンは呆気に取られる。
彼女としてはまさか本物の神々や悪魔が人間用に魔法を作るなんぞ思いもしなかったからだ。
「ちなみに私は関わってないの。私が作るとちょっと威力がありすぎるとかでね。そんな理由で私の弟子のエシュタルとかも……魔族側はベルゼブブが中心となってたわ」
出てくる大物の名前にエヴァンジェリンは思わず息を飲む。
「で、うちのエシュタルやフェネクスとかの力やその他諸々を呪文の核に使いたいって話があったから、使わせてあげたのよ」
そう言うアシュレイにエシュタルは恐る恐る彼女に告げる。
「あの、アシュ様。フェネクスのものですが……その呪文に燃える天空というのがありまして……」
「うん」
「その詠唱が……契約に従い、我に従え、炎の覇王。来たれ、浄化の炎、燃え盛る大剣。ほとばしれよ、ソドムを焼きし火と硫黄。罪ありし者を、死の塵に……というものなんですが……」
アシュレイは固まった。
思いっきり彼女に喧嘩売ってる詠唱に。
「ちょっとベルゼブブ殴ってその後、神界潰してくる。ついでにフレイヤ攫ってくる」
音もなくアシュレイはその場から転移していった。
呆然と彼女を見送ったエヴァンジェリンにエシュタルが告げる。
「さて、アシュ様のことは置いておいて、さっさと始めるぞ」
「え、いいの?」
「いいんだ、アシュ様だから。あとでアシュ様の逸話も聞かせてやろう。どれだけ凄いかを思い知るがいい」
そう告げるエシュタル。
彼女に尊敬されているのか、侮られているのか、今一つエヴァンジェリンには判断がつかなかった。
「ところでアシュ様から聞いていると思うが、現実時間で100年、この加速空間だとおよそ87万6000年がテスト期間だ。その間に私が駄目だ、と判断したら人間界に放り出すのでよろしく」
「87万って……桁がおかしくない……?」
「寿命がないから何も問題はない」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
言い募るエヴァンジェリンに問答無用とばかりにエシュタルは魔力を全身に漲らせる。
今の実力を見るためには軽く模擬戦をするのが手っ取り早かった。
エシュタルの魔力だけで心臓を鷲掴みにされたようなプレッシャーを感じたエヴァンジェリンはまずい、と口を開こうとするが遅かった。
「お前の実力を私に見せるがいい!」
エヴァンジェリンの絶叫が響き渡った。
幾ら優れた資質があり、かつ吸血鬼であったとしても、いきなり魔神と戦えるレベルでないのは当然であった。
そして、数分後――
ジト目で見つめるエシュタルにエヴァンジェリンは仰向けになって空を見上げていた。
流れる白い雲を見、彼女は穏やかな気持ちになってしまう。
先ほど、エシュタルは敢えて付与される霊魂破壊効果を無くし、肉体のみを破壊するよう制限した。
その上でエヴァンジェリンを攻撃したのだが……その結果は言うまでもなかった。
だが、敢えて言うなら、エヴァンジェリンは自分の体が木っ端微塵になるという極めて貴重な体験をしていた。
ジト目のエシュタルにエヴァンジェリンは告げる。
「私は成り立てで、まだ10歳よ」
「ともかく、お前の実力は分かった。魔族としての戦闘や知識を叩き込んでやる」
燃えるエシュタルにエヴァンジェリンは内心溜息を吐いた。
そして、彼女は思う。
きっとこの修行兼テスト期間が終わった後、自分は人間界最強になっている、と。
世界最強ではないところがミソであった。
エヴァンジェリンにはどう頑張っても、アシュレイどころかエシュタルより強くなれる自信がなかった。
そして、エヴァンジェリンの勉強地獄が幕を開けたのだった。
その頃、激怒して出て行ったアシュレイはベルゼブブに食ってかかっていた。
彼女は彼の城に転移するなり、そのまま執務室に直行。
その際、止めようとする彼の部下達を一睨みで――無論、魔眼が発動しないように調節して――黙らせていた。
「ベルゼブブ! どういうことなの!」
「騒々しいね、アシュタロス。いつもの君はどこにいったんだい? それと、扉を壊して入ってくるのはやめてほしい」
「そんなのはどうでもいいの!」
バン、と彼の執務机を叩く。
「フェネクスの力を核とした燃える天空という人間用の呪文についてよ!」
「ああ、アレかい。確かにあの呪文は君にとっては古傷を抉られるようなものだが……それを言うなら、君は人間達に広まっている旧約聖書を根こそぎ無くすのかい?」
たとえ怒っていたとしても、アシュレイの頭は鈍っていない。
彼の言わんとすることがよくわかった。
ソドムとゴモラが神によって滅んだことは事実だ。
誰が何と言おうとそれは覆せない。
「……どうであれ、事実は事実だわ。客観的に見れば正しい」
「そういうことさ。ま、分からないでもないよ。君はあれで完全に悪魔になったのだから、君が何と言おうとあの事は君のトラウマになっている」
アシュレイとしては既に終わったこととしているが、たかが呪文詠唱で怒ってしまうのでは、まだまだ彼女の心の中で決着がついていない。
そして、これからもつくことはないだろう。
アシュレイがもし、ソドムとゴモラの民が他の誰かに貶されたならばやはり同じように激怒するだろう。
激怒された方は何故、怒っているのか理解ができない。
なぜならば彼らは神によって滅ぼされたとしか知らない。
もし、ソドムとゴモラの件を訂正しようとするならば先の戦争の背景から人類に説明せねばならない。
だが、大多数の人間は神々や上位の悪魔は伝説の中にしかいないものと認識している。
教会上層部やグレゴールなどは例外だ。
そして、彼らは伝説の存在が実在することを知った人類が取るだろう行動を暗示している。
すなわち、人間が一致団結し、知恵を振り絞って立ち向かってくるのだ。
自分達の生存の為に。
そうなれば泥沼だ。
人間は地球諸共滅んでしまうだろう。
神魔共にそれは望んでいない。
無論、時代が進めば人間達の間でソドムとゴモラの事実は旧約聖書にあるものとは少し違うのではないか、という論争が起こる可能性はある。
だが、神魔族が訂正の為に動くというのはできないことであった。
「怒るなとは言わないけど、もう少し冷静でもいいんじゃないかな? ただ事実をありのままに受け止め、余計な感情を削ぎ落とすんだ」
むぅ、と唸るアシュレイ。
そして、彼女は頭の中でその呪文を反芻してみる。
教科書の文を読むかの如く。
「……よく考えれば別にどうということはないわ」
ぽつりと呟いた彼女にベルゼブブは告げる。
「そういうものさ。事実だけを見つめ、余計なものを削ぎ落とす。というか、君って意外と人間思いなんだね。人間牧場をつくっているのに」
「私を崇める人間に対しては私は優しいのよ。ソドムとゴモラの民は全員例外なく私を崇めた。だから助けるし、彼らへの仕打ちに怒りもした」
「どうして君は悪魔になった後、人間達を助けて信仰を得ようと考えたなかったのかな?」
「簡単よ。助けてくれたのが悪魔だって知ったら、人間なんて簡単に手のひらを返すでしょう?」
ベルゼブブはなるほど、と頷いた。
彼としても人間の愚かなところはよく知っている。
「だからもう決めたの。人間に対して徹底的に恐怖を振りまいてやるってね」
もっとも、とアシュレイは続ける。
「悪魔と知ってなお、上辺だけでなく、私を崇める者や教えを請う者には優しくするわ」
そして、彼女は踵を返す。
「言いたいことだけ言って帰るのかい?」
彼の言葉に彼女は振り返らずに告げる。
「当然。だって悪魔だもの。他人の都合なんぞ知ったことじゃないわ」
その答えにベルゼブブはくつくつと笑いながら、彼女を見送ったのだった。
片やケルベロス、片や白面金毛九尾の狐。
東西妖怪をある意味代表している両者は一歩も譲らない。
2匹の間で念話による聞くに耐えない罵詈雑言の応酬が繰り広げられる。
そんな2匹の横で、アシュレイはエヴァンジェリンに地獄について説明をしていた。
説明を受ける彼女は聞きながらも、飾られている様々な調度品に見入っている。
彼女達は今、アシュレイの城の玄関ホールにいた。
エヴァンジェリンと共に地獄にやってきたアシュレイはすぐさま妙神山に取って返し、玉藻と陣風を回収していた。
なお、先に転移魔法で送られたレイチェルは外傷こそないが、精神的な疲労を癒すために用意された客室のベッドでゆっくりと眠っていた。
「何と言うか、本当に地獄なのね……」
エヴァンジェリンは一通りの説明を聞き、そう呟いた。
「生身で、かつ自分の意志で地獄に落ちた第一号ね。レイチェルは私と関係があったから除外するの」
「全然嬉しくない……」
そんな彼女にアシュレイは告げる。
「で、早速だけど……あなたには加速空間に入ってもらうの。教師を用意したから、とりあえず勉強してね」
アシュレイの言葉にエヴァンジェリンは目を丸くした。
テストするとは聞いたが、何でそんなことをするのかさっぱり分からなかった。
その疑問を見透かしたかのように、アシュレイが告げる。
「私のところにずっといるかどうかわからないし、最低限、生きていくだけの力は与えるわ」
エヴァンジェリンはまじまじとアシュレイの顔を見つめてしまう。
彼女からすればあのアシュタロスがこんなに親切にしてくれるなんて、思ってもみなかったからだ。
「あなたは自分の容姿に感謝すべきだわ。子猫みたいに可愛らしい……そうね、不死の子猫ってミドルネームをつけるべきだわ」
「えっと、それって皮肉?」
エヴァンジェリン的にはアシュレイの方がよっぽど可愛らしかった。
そんな彼女にアシュレイは溜息を吐いてみせる。
「まぁ、自分のことはわりと見えないものだしね……ともあれ、行こうか。あ、もう不死の子猫……アタナシア・キティで決定だから」
「アタナシア・キティ……悪くはないけど……」
歯切れの悪い彼女にアシュレイはにっこりと笑った。
「何か文句ある?」
そう言われてはエヴァンジェリンとしては頷くしかなかった。
断ったら怖かった。
そして、2人は加速空間に入った。
この加速空間はアシュタロスの置き土産を参考に、アシュレイが暇を見つけてつくった1時間が1年となるものであった。
なお、これはリゾートも兼ねており、山あり谷あり海あり砂漠あり、と色々なフィールドが存在した。
澄み渡った空。
広がる草原。
駆け抜ける爽やかな風。
エヴァンジェリンは風景のあまりの変わり様に呆然としてしまう。
彼女は前もってアシュレイから加速空間に行くということは聞かされていたが、彼女が当初想像していたものと正反対であった。
「私がお前の家庭教師のエシュタルだ」
呆然としていた彼女にそう告げるのはぺったんこな胸を張ってみせる子供形態のエシュタル。
今の彼女はエヴァンジェリンと同じか1、2歳年上にしか見えない。
何か言いたそうな視線をエヴァンジェリンはアシュレイに送るが、彼女はにこにこと笑っているだけだ。
「さて、アシュ様から粗方聞いている。資質は優れていると聞くが……ハッキリ言ってお前が学んだ人間魔法は我々にとっては子供の玩具に等しい」
そりゃそうだろうなぁ、とエヴァンジェリンは思う。
エシュタルは更に続ける。
「そもそもお前達人間の使うラテン語を主体とした魔法は我々魔族と神族が協力して作ったものだ」
その言葉にエヴァンジェリンは呆気に取られる。
彼女としてはまさか本物の神々や悪魔が人間用に魔法を作るなんぞ思いもしなかったからだ。
「ちなみに私は関わってないの。私が作るとちょっと威力がありすぎるとかでね。そんな理由で私の弟子のエシュタルとかも……魔族側はベルゼブブが中心となってたわ」
出てくる大物の名前にエヴァンジェリンは思わず息を飲む。
「で、うちのエシュタルやフェネクスとかの力やその他諸々を呪文の核に使いたいって話があったから、使わせてあげたのよ」
そう言うアシュレイにエシュタルは恐る恐る彼女に告げる。
「あの、アシュ様。フェネクスのものですが……その呪文に燃える天空というのがありまして……」
「うん」
「その詠唱が……契約に従い、我に従え、炎の覇王。来たれ、浄化の炎、燃え盛る大剣。ほとばしれよ、ソドムを焼きし火と硫黄。罪ありし者を、死の塵に……というものなんですが……」
アシュレイは固まった。
思いっきり彼女に喧嘩売ってる詠唱に。
「ちょっとベルゼブブ殴ってその後、神界潰してくる。ついでにフレイヤ攫ってくる」
音もなくアシュレイはその場から転移していった。
呆然と彼女を見送ったエヴァンジェリンにエシュタルが告げる。
「さて、アシュ様のことは置いておいて、さっさと始めるぞ」
「え、いいの?」
「いいんだ、アシュ様だから。あとでアシュ様の逸話も聞かせてやろう。どれだけ凄いかを思い知るがいい」
そう告げるエシュタル。
彼女に尊敬されているのか、侮られているのか、今一つエヴァンジェリンには判断がつかなかった。
「ところでアシュ様から聞いていると思うが、現実時間で100年、この加速空間だとおよそ87万6000年がテスト期間だ。その間に私が駄目だ、と判断したら人間界に放り出すのでよろしく」
「87万って……桁がおかしくない……?」
「寿命がないから何も問題はない」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
言い募るエヴァンジェリンに問答無用とばかりにエシュタルは魔力を全身に漲らせる。
今の実力を見るためには軽く模擬戦をするのが手っ取り早かった。
エシュタルの魔力だけで心臓を鷲掴みにされたようなプレッシャーを感じたエヴァンジェリンはまずい、と口を開こうとするが遅かった。
「お前の実力を私に見せるがいい!」
エヴァンジェリンの絶叫が響き渡った。
幾ら優れた資質があり、かつ吸血鬼であったとしても、いきなり魔神と戦えるレベルでないのは当然であった。
そして、数分後――
ジト目で見つめるエシュタルにエヴァンジェリンは仰向けになって空を見上げていた。
流れる白い雲を見、彼女は穏やかな気持ちになってしまう。
先ほど、エシュタルは敢えて付与される霊魂破壊効果を無くし、肉体のみを破壊するよう制限した。
その上でエヴァンジェリンを攻撃したのだが……その結果は言うまでもなかった。
だが、敢えて言うなら、エヴァンジェリンは自分の体が木っ端微塵になるという極めて貴重な体験をしていた。
ジト目のエシュタルにエヴァンジェリンは告げる。
「私は成り立てで、まだ10歳よ」
「ともかく、お前の実力は分かった。魔族としての戦闘や知識を叩き込んでやる」
燃えるエシュタルにエヴァンジェリンは内心溜息を吐いた。
そして、彼女は思う。
きっとこの修行兼テスト期間が終わった後、自分は人間界最強になっている、と。
世界最強ではないところがミソであった。
エヴァンジェリンにはどう頑張っても、アシュレイどころかエシュタルより強くなれる自信がなかった。
そして、エヴァンジェリンの勉強地獄が幕を開けたのだった。
その頃、激怒して出て行ったアシュレイはベルゼブブに食ってかかっていた。
彼女は彼の城に転移するなり、そのまま執務室に直行。
その際、止めようとする彼の部下達を一睨みで――無論、魔眼が発動しないように調節して――黙らせていた。
「ベルゼブブ! どういうことなの!」
「騒々しいね、アシュタロス。いつもの君はどこにいったんだい? それと、扉を壊して入ってくるのはやめてほしい」
「そんなのはどうでもいいの!」
バン、と彼の執務机を叩く。
「フェネクスの力を核とした燃える天空という人間用の呪文についてよ!」
「ああ、アレかい。確かにあの呪文は君にとっては古傷を抉られるようなものだが……それを言うなら、君は人間達に広まっている旧約聖書を根こそぎ無くすのかい?」
たとえ怒っていたとしても、アシュレイの頭は鈍っていない。
彼の言わんとすることがよくわかった。
ソドムとゴモラが神によって滅んだことは事実だ。
誰が何と言おうとそれは覆せない。
「……どうであれ、事実は事実だわ。客観的に見れば正しい」
「そういうことさ。ま、分からないでもないよ。君はあれで完全に悪魔になったのだから、君が何と言おうとあの事は君のトラウマになっている」
アシュレイとしては既に終わったこととしているが、たかが呪文詠唱で怒ってしまうのでは、まだまだ彼女の心の中で決着がついていない。
そして、これからもつくことはないだろう。
アシュレイがもし、ソドムとゴモラの民が他の誰かに貶されたならばやはり同じように激怒するだろう。
激怒された方は何故、怒っているのか理解ができない。
なぜならば彼らは神によって滅ぼされたとしか知らない。
もし、ソドムとゴモラの件を訂正しようとするならば先の戦争の背景から人類に説明せねばならない。
だが、大多数の人間は神々や上位の悪魔は伝説の中にしかいないものと認識している。
教会上層部やグレゴールなどは例外だ。
そして、彼らは伝説の存在が実在することを知った人類が取るだろう行動を暗示している。
すなわち、人間が一致団結し、知恵を振り絞って立ち向かってくるのだ。
自分達の生存の為に。
そうなれば泥沼だ。
人間は地球諸共滅んでしまうだろう。
神魔共にそれは望んでいない。
無論、時代が進めば人間達の間でソドムとゴモラの事実は旧約聖書にあるものとは少し違うのではないか、という論争が起こる可能性はある。
だが、神魔族が訂正の為に動くというのはできないことであった。
「怒るなとは言わないけど、もう少し冷静でもいいんじゃないかな? ただ事実をありのままに受け止め、余計な感情を削ぎ落とすんだ」
むぅ、と唸るアシュレイ。
そして、彼女は頭の中でその呪文を反芻してみる。
教科書の文を読むかの如く。
「……よく考えれば別にどうということはないわ」
ぽつりと呟いた彼女にベルゼブブは告げる。
「そういうものさ。事実だけを見つめ、余計なものを削ぎ落とす。というか、君って意外と人間思いなんだね。人間牧場をつくっているのに」
「私を崇める人間に対しては私は優しいのよ。ソドムとゴモラの民は全員例外なく私を崇めた。だから助けるし、彼らへの仕打ちに怒りもした」
「どうして君は悪魔になった後、人間達を助けて信仰を得ようと考えたなかったのかな?」
「簡単よ。助けてくれたのが悪魔だって知ったら、人間なんて簡単に手のひらを返すでしょう?」
ベルゼブブはなるほど、と頷いた。
彼としても人間の愚かなところはよく知っている。
「だからもう決めたの。人間に対して徹底的に恐怖を振りまいてやるってね」
もっとも、とアシュレイは続ける。
「悪魔と知ってなお、上辺だけでなく、私を崇める者や教えを請う者には優しくするわ」
そして、彼女は踵を返す。
「言いたいことだけ言って帰るのかい?」
彼の言葉に彼女は振り返らずに告げる。
「当然。だって悪魔だもの。他人の都合なんぞ知ったことじゃないわ」
その答えにベルゼブブはくつくつと笑いながら、彼女を見送ったのだった。