「くっ……」
ミカエルは苦痛に喘ぎながらも、どうにか地球へと降り立った。
降り立った場所はアシュタロスにとっても、ミカエルにとっても因縁のあるところ。
巨大なクレーターの傍に彼女はその身を横たえた。
「全ての始まりはここか……」
そう呟き、彼女はアシュタロスへと念話を飛ばす。
アシュタロス――アシュレイはその念話に驚き、ついで狂喜し、すぐに迎えに行くと返事した。
「これで……」
終わった、と彼女が言いかけたそのとき、強大な神霊力の圧力……霊圧を感じた。
彼女はどうにか起き上がり、その瞳を向ける。
その主はいた。
「まさかお主が堕天するとは思ってもみなかったぞ……」
人民服をその身に纏った1匹の猿。
その手には巨大な棍。
「斉天大聖……!」
厄介な、と彼女は心の中で呟いた。
猿神とも呼ばれる斉天大聖は上級神族に分類されるが、その力は主神クラスに近い。
万全の状態ならともかく、今のミカエルではとてもではないが戦闘にもならない。
あっという間に殺される。
「お主に神々が行ったことは噂に聞いているが……堕天する程までに酷かったのか……」
彼は悲痛な表情でミカエルを見つめる。
彼女はアシュレイが来るまでの間、僅かでも時間を稼ごうと痛みに苛まれながらも、口を開いた。
「我々天使は元々は主の……ヤーウェ様の使い。なぜ、我々天使が他の神々の面倒まで見なければならないのか?」
斉天大聖はその問いに答える術を持たない。
否、彼をはじめとして全ての神族はその問いに答えることができないだろう。
「自らの地位を濫用し、私をモノにしようとした。神は魔族よりも性質が悪い」
「……無理矢理力で屈服させられるのがいいのかの?」
「まだ、それなら諦めもつく。自分が死力を尽くした結果そうなるならばな」
「ふむ……お主はある意味、魔族が性に合っているのかもしれんなぁ」
じゃが、と彼は棍を彼女へと向けた。
「今は一応戦争中じゃ。お主が堕天すれば魔神か、下手をすれば魔王クラスの悪魔が誕生することになる。お主の言い分も理解できる。確かに天使は不遇じゃ。じゃが、もう少しやり方があった筈じゃろう?」
「私を消しにきたのか。主……いや、ヤーウェ様に尽くすだけでなく、神界の為に、他の神々に散々尽くしてやった私を」
ぎり、と歯を食いしばり、彼女は立ち上がる。
そして、剣を抜き放つ。
たとえ彼女が堕ちたとしても、この剣は砕けず、主である彼女と同じように黒く染まる。
この剣はミカエルの一部であるのだ。
「立つのも辛いのにわしと戦う気か……」
苦渋の表情の斉天大聖にミカエルは笑ってみせる。
「最後に聞かせろ。誰がお前に消せと命じた?」
「……聞けばお主はこれ以上ない苦痛を味わうことになるぞ?」
ミカエルはその言葉で既に誰が命じたのか想像がついた。
だが、彼女は聞かねばならなかった。
光への、主への未練を断つ為に。
「構わない」
彼女の言葉に斉天大聖はゆっくりとその名を告げる。
「最高指導者……ヤーウェ様じゃ。あの御方とて断腸の思いだったじゃろう。あの御方はお主も知るとおり、優しい御方だ」
「……そうか」
予想はできていただけに彼女に悲しみはない。
ただ僅かな寂しさがあった。
しかし、それをも断つべく、彼女は言葉を紡ぐ。
「伝えてくれ。迷惑をかけました、と」
覚悟を決めたかのような、ミカエルの言葉に斉天大聖は静かに頷いた。
「動くでないぞ」
そう告げ、斉天大聖はミカエルの左胸を狙い、棍を構える。
瞬間、ミカエルは叫んだ。
おそらくは見ているだろう彼女に向けて。
「我が全てを大公爵アシュタロス様に捧げます! 我が名はフェネクス!」
瞬間、斉天大聖は棍を伸ばした。
彼の持つ棍、如意棒は彼の意思を受け、ミカエル――フェネクスへと一直線に迫る。
その速さたるや疾風の如し。
「あらあらあら。どっかで聞いた名前だこと」
いつの間にか現れていた少女に、その棍は片手で受け止められていた。
斉天大聖の顔に焦りが浮かぶ。
熟練の戦士である彼は一目でわかった。
目の前の少女がとんでもない力の持ち主であることを。
「フェネクス、そう、フェニックスね。なるほど、ミカエルは火の象徴。それが堕ちると……」
何度か頷き彼女……アシュレイはやがて斉天大聖へと視線を向けた。
「さて、あなたはもう見てすぐにわかったわ。猿に如意棒とくれば孫悟空しかいない。まだ地球で大暴れはしないのかしら?」
「戦争中じゃからな」
「それもそうね」
くすくすと笑い、彼女は如意棒を手放す。
彼は如意棒を戻し、油断無く構える。
「ところでお主はアシュタロス……アシュレイでよかったかの?」
「いかにも」
「わしが言えることではないが、迷惑をかけた。お主をどうにか救ってやりたかったが……」
そう言いつつも、彼は構えを解かない。
だからといって、彼が上辺だけそう言っているようには見えない。
「あら、終わったことはもういいわ。そうあれかし、と叫んでおけば世界はするりと片付き申すって言うらしいわよ?」
「どこの言葉じゃ……ともあれ、わしは堕天する前にミカエルを消さねばならん」
その言葉にアシュレイは不敵に笑ってみせる。
「残念だけど、彼女はもう私のもの。私の許可なく手を出すことは何人も許されない」
「では頼もう。殺させてくれんかの?」
その頼みに彼女はにっこりと素敵な笑顔を向け、答える。
「寝言は寝て言え猿」
「結局断わられるんじゃろうが……」
溜息一つ、彼は最後通牒を発した。
「お主を傷つけたくはない……という欺瞞は言わん。だが、お主がこの戦争で被害者であることは間違いない。引けば今回に限り穏便に収めることができる」
その問いにアシュレイはフェネクスを抱き寄せる。
彼女は抵抗することなく、アシュレイの胸に収まる……と言っても、アシュレイは少女形態なので体格差でどうしても不恰好となってしまうが。
何をする気だ、と斉天大聖は訝しげな視線を向ける。
如何に魔王クラスの実力者といえど、戦闘において片手を塞ぐなど自殺行為に等しいものだ。
彼の視線にアシュレイは悪戯に成功した子供のような笑みを浮かべた。
そして、叫んだ。
「あばよ! とっつぁん!」
瞬間、斉天大聖が前へと出た。
数mの距離をコンマ数秒以下の時間で詰め、ほぼタイムラグ無しで彼はアシュレイの目の前に現れた。
振るわれた棍。
それは空を切った。
彼は渋い顔で2人がいた場所を見つめる。
「まさか、魔神ともあろう者が戦闘もせずに逃げるとは……」
そこまで呟き、彼はあることに気がついた。
アシュレイが戦闘をしなかった理由、その答えは彼の真横にあった。
「そうか……ここはあやつにとって……」
斉天大聖の視界に広がるのは巨大なクレーター、そこはソドムとゴモラの跡地。
アシュレイにとって、この場所は血で穢してはならない、特別な場所であった。
「……あの」
テレジアが言いにくそうに声を出した。
「アシュ様……」
ベアトリクスが何とも言えない表情で名を呼んだ。
「その……」
シルヴィアが困惑したような表情で自らの主の横にいる者を見つめる。
「……アシュ様が色々と偉大というか規格外なのは知っていたが……」
エシュタルは呆れ顔。
「何でミカエルがいるのですか? それも翼が真っ黒で」
ディアナがズバッと問いかけた。
斉天大聖から逃げて数時間後、ミカエルの堕天は終わり、体の調子を整えたところでようやく、お披露目となった。
一同に不敵に笑うアシュレイ。
彼女は告げる。
「今回、私の新しい部下となった元熾天使のミカエル。フェネクスって呼んであげてね」
「よろしく頼む」
「いや、そんなノリで言われても……」
問いかけたディアナがそう答えた。
今まで敵として戦ってきた彼女が突然味方になりました、という状況なのだ。
その困惑具合は推して知るべし。
「セクハラしてくる神にはもう愛想が尽きた。これからは悪魔として精一杯だらけるのでよろしく」
当の本人は何だか妙に軽いノリであった。
彼女としてはスッキリと気分爽快だ。
セクハラしてくる神はいないし、仕事は好きなときに休んでいいし、何よりアシュレイから給料は言い値で払うと言われている。
労働条件は最高であった。
「アシュ様、彼女の仕事は?」
主が決めたことならしょうがない、と一番最初に割り切ったベアトリクスは問いかけた。
「軍団の指揮を考えていたのだけど、今のままでも十分やれているから城の警護が主かしら……ぶっちゃけ、今、城に警備員を仕事とする強い魔族っていないし……」
アシュレイの言葉にフェネクスは豊満な胸を張って答える。
「お任せください。立派な自宅警備員となりましょう」
「何か今、発音がおかしくなかったか?」
テレジアが思わず問うた。
彼女の耳には自宅警備員の部分がニートと聞こえたからだ。
他の者も同じように聞こえたらしく、ベアトリクス達もじーっとフェネクスを見つめている。
「気のせいだろう」
ぷいっとそっぽを向くフェネクス。
随分とはっちゃけてしまったらしい。
「あ、あと今は力を抑えているけど、この子、堕天したら力が上がって魔神と同じくらいの魔力あるから」
アシュレイの補足説明には誰も驚かない。
あのミカエルが堕天したなら、それくらいの力を持つことは容易に想像ができるからだ。
「あー、疲れた。疲れたから私はちょっと寝る。じゃーね」
手をひらひらさせてアシュレイはその場を後にした。
残された彼女達はお互いに視線を交わし、やがてテレジアが口を開く。
「何だかよくわからないが、一応歓迎しよう。ようこそ地獄へ」
「ああ、ありがとう。地獄は初めてなんだ。ところで、地獄には女しかいないのか? ここに来るまで、すれ違った魔族は全て女性型なのだが」
「アシュ様の趣味でな。男がいたほうがよかったか?」
「いや、いなくて安心した。見知らぬ男には悪いイメージしかない」
そう告げたフェネクスにディアナが問いかけた。
「どうして堕天を? 戦場で何度か見たけど、物凄く頑張ってたじゃないの」
「聞いてくれるか? 私の苦労話を……」
暗い影を背負い、暗い表情となった彼女にディアナは気圧されながらも頷いた。
他の者達も興味があったので異論はない。
「始まりは大昔にあった神々のパーティーでな……そこで好色な神に目をつけられて……」
語り出すフェネクスにその場にいた全員が直感した。
とんでもなく長くなりそうだ、と。