神魔族の戦争――ハルマゲドンが始まり早数百年。
ゼウスをはじめとしたギリシャ系神族は戦争が始まって以後も地上に……すなわち、人間界に留まり続けた。
人間界に侵攻してくるであろう魔族から守護する為に。
しかし、待てど暮らせど魔族はやってこず、肝心の戦闘も太陽系から数光年程離れた場所で大規模な会戦が数回発生した程度。
両軍合わせて数百万の主神やら天使やら魔王やらが入り乱れた大乱戦となったのだが、地球には全く影響がなかった。
ともあれ、そんな遥か彼方でしか戦闘が起きていないので、ギリシャ系神族は戦争勃発前と変わらぬ生活を送っていた。
神界からは今までの戦闘で魔神アシュレイが姿を見せていないことから、地上侵攻を目論んでいる可能性あり、という警告が彼らにはきていた。
そのような中、彼らの下にある噂が届いた。
とても美しい人間の娘がいる、と。
その噂をギリシャ系神族でいの一番に聞きつけたゼウスは早速、その娘に使いを出し、自らの神殿に招いたのであった。
荘厳なる玉座の間に彼は座っていた。
彼の妻であるヘーラーはしばらく前から旅行に出掛けており後数年は帰ってこない。
故に、鬼のいぬ間に、と彼は考えたのだ。
今か今かという思いで彼が待つこと2時間。
ついに待望の時が訪れた。
黒髪を長く伸ばし、透き通るかのような白い肌。
神々が丹精込めてつくったのではないか、と思えるような整った顔。
その美しさに彼――ゼウスは満足気に頷いた。
その娘はゼウスの前まで来、平伏した。
玉座の間には彼と彼女以外、誰もいない。
「汝、名を何と申す?」
一拍の間を置き、彼は尋ねた。
「イレーシュアです。ゼウス様」
顔を伏せたまま、彼女は答えた。
「顔を上げるが良い」
彼女がゆっくりと顔を上げた。
ゼウスはその美貌を見、再び満足気に頷いた。
「さて……汝は朝昼晩、余に祈りを捧げていると聞く」
彼はそこで言葉を切り、彼女の反応を待つ。
イレーシュアは頷き、言葉を紡ぐ。
その内容はゼウスをして、驚愕させるものであった。
「ゼウス様、あなた様にはヘーラー様がいらっしゃることは承知しております。ですが、私はあなた樣を愛してしまったのです」
そして、彼女は語り始める。
彼の力である気象の素晴らしさ、そして彼自身の偉大さを。
うっとりとした表情で語るイレーシュアにゼウスは気を良くしてしまう。
元々彼は彼女を手に入れるつもりであったが、これだけ慕われているのならさっさと美味しく頂いても何も問題はなかった。
「汝は余を愛していると申したな」
「はい、私の気持ちに偽りはありません」
ゼウスの目をまっすぐ見据えて、彼女は答えた。
「余についてくるがいい。天上の快楽を味合わせることを約束しよう」
ヘーラーが戻ってくるまで楽しめそうだ、とそういう軽い気持ちであった。
そして、それが彼にとって最悪の事態を招くことになってしまった。
寝室へイレーシュアを案内したゼウスはまず彼女に口で奉仕するよう命じた。
彼女は戸惑いながらも了承し、その様子が彼には堪らない。
彼は両目を閉じ、感触を堪能しよう、と思ったその矢先であった。
「―――――!」
彼は目を見開き、絶叫を上げた。
下を見ればその娘が彼のモノを噛みちぎり、そこから流れ出る血を啜っていた。
不意に彼女が顔を上げる。
彼女の雰囲気は一変し、その顔は邪悪に染まっていた。
そして、彼女の瞳は血のように紅く染まっている。
もはや隠す必要なし、と彼女が判断したのか、その背中からは烏の如き黒い翼、頭にはヤギの角が生えてきた。
「き、さま……!」
ゼウスはそう告げるだけで精一杯であった。
彼女は彼の股間から顔を離すや否や、今度はその首筋に噛みつき、そのまま両手で彼の首を持ち、無理矢理引きちぎった。
溢れ出る鮮血を浴び、彼女の姿は紅く染まっていく。
彼女は狂ったように笑い、その血を呑んでいく。
嚥下する度に自らがより強くなっていくのを、彼女は感じた。
「ゼウス様!」
悲鳴を聞き、おっとり刀で駆けつけてきた数人の兵士達が寝室の扉を蹴破り、中に入ってきた。
彼らは血を啜る娘とゼウスの死体を見、憤怒の形相でイレーシュアに斬りかかった。
しかし、それは無駄に終わった。
「んー、やはりゼウスよりは落ちるわね」
数秒後には首なしとなった兵士の死体があった。
そう感想を述べた彼女は兵士の首を放り投げ、ゼウスの死体に齧り付いた。
血を啜り、肉を咀嚼する音が部屋中に木霊する。
兵士達が突入してから5分と経たずにゼウスの死体を骨まで喰らった彼女はその翼を大きく広げた。
「さて、はじめるとするか」
彼女は巨大な魔法陣を自らの魔力でもって描き始めた。
その速度たるや凄まじく、あっという間にそれは完成する。
「退避退避っと」
彼女はゼウスが死んだことで神殿を覆っていた結界が消え、使えるようになった転移魔法でもって、その場を後にした。
その数秒後、ゼウスの神殿は巨大な火球に呑み込まれ、この世から消え去った。
魔界に戻ったイレーシュアはただちに議事堂に出頭し、作戦成功の旨を告げた。
もはや言うまでもないが、彼女はアシュレイであった。
「よくやった!」
アペプが喝采を叫んだ。
「まったくもって大したヤツだ!」
スルトがそう言って彼女の背中を叩き、セトは敵ながらも同じ男としてゼウスの冥福を祈った。
ハニートラップはげに恐ろしきものであった。
10分程、大興奮状態に包まれたが、さすがにいつまでも騒いでいるというようなことはせず、誰もが皆、彼女が具体的にどうやったかを聞きたがった。
アシュレイとしても話したいのでわざわざアペプに葡萄酒を持ってこさせるということをやらせ、セトのジャッカルの耳を触らせてもらい、そしてスルトに肩車してもらった後、話し始めた。
人間に化けるとき、魔族であることがバレないようにする為に薬や幻術などでの変化ではなく、細胞レベルで自らの体を作り変えて変化したこと。
ヘラクレスなどの英雄に出会わないように、ゼウスが1人となるようタイミングを図ったこと。
祈りたくもないゼウスに祈ったことなどなど。
彼女の苦労話は3時間にも及んだ。
「で……正式に魔王としたいのだが、如何せん、今序列を弄ると指揮系統的に面倒となるので、戦争終了まで待ってはくれないか?」
「いいわよ。でも、待ってあげるからお宝とか頂戴」
「そのくらいならいくらでも」
アシュレイの要望にあっさりとアペプは頷いた。
彼女の今回の功績を考えれば安いものだ。
「それじゃ疲れたから帰るわ」
じゃーね、と彼女は手をひらひらさせて自分の領地……というよりか、アシュタロスが置いて行った加速空間にある屋敷へと帰還したのであった。
そして、彼女を出迎えた従者達に困惑した。
「……アシュ様、我々がどれだけ心配したか……」
両目一杯に涙を溜めて、アシュレイを見つめるテレジア。
「我々がもっと強ければ……!」
悔しがっているベアトリクス。
「アシュ様にゼウス如きの不潔なものを……」
嘆くシルヴィア。
そんな彼女達とは別にリリスとリリムはアシュレイの前に跪いていた。
わりとフランクであったリリスすらも、礼儀正しく、臣下の礼をとっている。
リリスは帰還したアシュレイを見た瞬間に本能で悟ったのだ。
もはや今までのような態度をとってはいけない、と。
「テレジア、ベアトリクス、シルヴィア」
3人の名を呼ぶ。
アシュレイとしては彼女達が心配してくれるのは嬉しいが、力を得るために仕方がない行為。
故に主の権限でもって黙らせることにした。
「私が強くなることに、そして私の決定に不服があるのなら申せ」
3人は一様に押し黙った。
同時に重い空気が流れるが、それを作った本人は今度は軽い口調で告げた。
「あとで心配していたことも忘れてしまう程に抱いてあげるから、もうちょっと待ってなさい」
そう告げて、ウィンク一つ。
普通ならば朝令暮改甚だしい、と呆れられるところだが、テレジア達は使い魔である。
主にそう言われて喜ばない筈がない。
表面上はただ頷いただけであるが、その内心は歓喜に満ちていた。
「リリス、リリム。あなた達にも寂しい思いをさせたから、その体の疼き、私が抑えてあげるわ」
「喜ばしい限りです、アシュ様」
リリムが答え、続けてリリスが口を開いた。
「お言葉ですが、寂しい思いをしたのは我々だけでなく、他の淫魔達も同じこと。どうぞ、御慈悲を……」
思わずアシュレイは固まった。
彼女は目を何度かこすって、リリスをまじまじと見つめ、もう一度、目をこすって再びリリスを見つめた。
「リリス……何か、悪いものでも食べたの?」
「えっ」
これにはリリスが面食らった。
彼女はアシュレイが加速空間から出て行ったときと比べ、数十倍……下手をすれば数百倍も魔力が上がっており、より敬意を払わねばと思うが故に出た態度。
「リリスはいつも通りじゃなきゃヤダ」
ぷいっと頬を膨らませてそっぽを向くアシュレイにリリスは思わず笑ってしまった。
それと同時に彼女は嬉しく思う。
なぜなら敬語を使わなくていい、とアシュレイ本人から容認されたのだ。
自分はアシュレイにとって特別な存在である証ではないか、と。
「もうアシュ様は可愛いんだから……」
リリスは素早くアシュレイを抱きしめた。
抱きしめられた側はその胸の感触に頬を緩ませる。
リリムは呆れた表情でリリスを見つめ、溜息を吐いた。
そして、そんな2人を羨ましそうに見守るテレジア達。
何年経っても、彼女達は変わっていなかった。
「そういえばディアナとエシュタルは?」
アシュレイの問いにテレジアが答えた。
「2人ならニジと一緒に新しい魔法を開発するとか言って実験場に篭っております」
「あとで挨拶に行きましょうか……とりあえず、今からあなた達を堪能したい」
しばらくはのんびりしよう、とアシュレイは決意したのであった。