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希望的観測

 月明かりが優しい夜、ソドムとゴモラの街に設けられた神殿、その中にある寝室。
 窓から差し込む月光が部屋の中を明るく照らし、大きなベッドの上ではアシュレイと彼女に抱きついているエナベラがいた。
 2人は既にベッドの上で一戦交えた後であった。

「戦争になるわ」

 唐突にアシュレイが告げた。
 その言葉にエナベラはその灰色の瞳でアシュレイの顔をまじまじと見つめる。

「神々と私達、魔族との。地上……いえ、この星にはお互いに手を出さないだろうけども、それでも万が一ということもありえるわ」
「そう、ですか……」

 エナベラはそう返し、アシュレイの小柄な体をより強く抱きしめる。
 数分程の沈黙が続き、やがてエナベラが呟くように告げた。

「私は怖いです……アシュ様が消えてしまいそうで……」
「大丈夫よ。私は絶対に死なない。一時的に冬眠みたいなことにはなるけども、いずれ復活する」

 アシュレイは優しくエナベラの灰色の髪を撫でる。

「ソドムとゴモラの皆には少しずつ避難してもらいたいわ。絶対に安全とは言い切れないから」
「でも、アシュ様。皆はきっとアシュ様の為に戦いたい、と思います」
「残念だけど、人間にどうこうできる存在ではないわ」

 アシュレイは告げた。

「それなら私の為に祈って欲しい。神々が信仰によって力を得ることができるように、悪魔もまた信仰によって力を得ることができる」

 まあ、悪魔の場合、人間がどれだけその悪魔に恐怖しているか、でも力を得られるんだけども、とアシュレイは付け加えた。

「大丈夫よ。そう簡単には負けない。私は強いから……」

 アシュレイはエナベラを安心させる為にその翼で彼女の体を包みこむ。
 翼の感触に思わずエナベラは頬を緩ませる。

「エナベラ、もし私達が負けたら、きっとあなた達への迫害が始まるわ。悪魔を信仰するとか何とかでね」

 だから、とアシュレイは続ける。

「あなたが皆をできるだけ護ってあげて。負けたら、私は一時的に冬眠となるから、あなた達を護れない」
「アシュ様……私には何故か負けることを前提に話しているように聞こえるのですが……?」

 アシュレイは力なく微笑む。

「善と悪は表裏一体の存在。けれども、悪は最終的に善に敗れる。それが、世界のルールなのよ」

 戦争への協力を表明して以降、アシュレイにはそんな予感があった。
 きっと勝てないだろう、と。

「でも、ただ負けたりはしない。派手に華麗に主神クラスと刺し違えてやる」

 ヤッさん――ヤーウェは無理でも、ホルス辺りならいけるだろう、とアシュレイは思う。
 勿論、実際に会ったことなどないので単なる希望的観測だ。

「アシュ様は本当に悪魔なのですか?」

 唐突にエナベラが問いかけた。
 アシュレイはゆっくりと頷く。

「では何故、私達を助けてくださるのですか?」
「腐れ縁というか、乗りかかった船というか……」

 アシュレイの言葉にきょとんとしているエナベラ。
 まだこういう言葉はなかったか、と悟り、アシュレイは言い換える。

「ともあれ、あなた達のご先祖達に私は凄いんだぞ、というところを見せようとしたら、既に別の魔族が悪いことをしていて、その魔族を追っ払ったらこうなったのよ」

 偶然よ、と続けたアシュレイ。
 彼女としてもここまで人間との関わりが大事になるとは思ってもみなかった。

「それに私は色々悪いことを部下に命じて……」

 やってたっけ、と思わずアシュレイは首を傾げた。
 彼女がやったことは加速空間に篭って淫魔や従者やペットとイチャイチャ。
 地獄で魔族を武力で配下に収めたりしているが、人間に対してはリリスの件以外は何にもやってはいない。
 むしろ、人間達には良い事を行っている。

「……あれ、私って別に悪くなくね?」

 思わずそんな言葉が出た。

「最近では他の街の住民達もアシュ様を信仰しております。おかげで豊作が続いているとのことです」
「そーなんだ……」

 エナベラのトドメとも言える言葉にアシュレイは沈黙せざるを得ない。
 今は悪魔であったとしても、かつては神であったという存在は多い。
 エジプト神話のセトがその良い例だろう。
 そして、アシュレイも将来そうなるだろう。
 未来において、アシュタロスは多くの人間から悪魔として嫌われているのだから。 

「ともあれ」

 アシュレイが話題転換を図るべく、切り出した。

「エナベラ、もし酷い目に遭いそうになったら、私を貶しなさい。私からも皆にそう伝えておくけど……皆には酷い目に遭って欲しくはない」

 エナベラは数瞬の間を置いて、微かに頷いた。
 いい子ね、とアシュレイは彼女の頭を優しく撫でる。

「あなたには多くの魔法を教えた。けども、その魔法はあくまで怪我人や病人を治すもの。もし、脅威に遭いそうであったら逃げなさい。生きていれば巻き返すことができる」

 もしかしたら、とアシュレイは更に続ける。

「あなたの子孫も酷い目に遭うかもしれない。だけど、諦めないで欲しい。絶望の淵でも諦めないで」

 自分の言葉はエナベラにとって呪縛となるだろうことはアシュレイには容易に想像がつく。
 しかし、これは彼女なりの優しさ。
 精神的に壊れてしまわないようにする為の、残酷な優しさ。


「さて……」

 アシュレイは暗い空気を飛ばすように、エナベラににっこりと笑ってみせる。

「夜はまだ長い。一時の快楽であっても、沈鬱な気持ちを吹き飛ばすには十分」

 彼女はそう告げ、エナベラを押し倒す。
 エナベラはその灰色の瞳で彼女を見つめ、微笑んだのであった。








「ふむぅ……」

 ソドムとゴモラの民に警告し、戻ってきたアシュレイは端正な顔を歪ませて悩んでいた。
 その原因は2冊の本。
 膨大な知識を蓄え、何だかんだで頭も切れる彼女を悩ますことは並大抵ではない。
 その本の名前は『武術入門』と『武術全書』だ。

「こう、でいいのかしら……?」

 本を目の前に浮かせつつ、本に書かれている通りに体を動かしてみる彼女。
 アシュレイが何でこんなことを今更しているのかというと、やはり戦争になるから少しでも力をつけておこう、という理由に端を発する。

 アシュタロスは基本的に頭脳派であり、彼が教えたのは魔法科学や数学など武術以外のことだ。
 基本的に神魔族において、武術を学んでいる者は極めて少ない。
 なぜならば全力での戦闘ではアウゴエイデスによる怪獣大決戦となり、近接して殴り合うなんていう状況には滅多にならない。
 魔神や魔王、主神や上級天使のアウゴエイデスともなれば全高・全長共に数百mにも達する。
 そして、その状態では殴るよりも惑星を消し飛ばすレベルの破壊光線の乱射が基本戦術だ。 

 そんな理由で必要無し、とされた武術を敢えてアシュレイが今更学んでいる理由は彼女の計略にあった。
 彼女はゼウスに1人で近づく必要があるので、学んでおいて損はない。
 ただ問題は武術の先生がいないことであった。

「まあいっか。どうにかなるでしょ」

 先生がいないことにはそのやり方で正しいのかどうか、判断がつかない。
 将来的に誰かに教わればいい、と彼女は結論づけた。
 
「それよりも、もう少し私の強さを知らしめても問題はないわね」
「アシュ様、何が問題ないの?」
「あんっ」

 背後からアシュレイを抱きしめたのはリリス。
 勿論、ついでにアシュレイの胸も揉む。

「ああ、アシュ様の胸……」

 むにむに、と少女形態なのでそこまで大きくはない胸をリリスは揉みしだく。

「お母様、ずるいわ」

 どこからともなく現れたリリムは不満げな顔でリリスを見つめている。

「と、とにかく! 私が自ら出て配下増やすの!」

 アシュレイはそう宣言した。
 胸を揉まれながら言ったところで、迫力は欠片もなかった。
 しかし、アシュレイは知らない。
 彼女の名が予想以上に広まっており、今ではシルヴィアやベアトリクスが出向いただけで下位の魔族はアシュレイの配下となることを承諾することを。
 すなわち、彼女が望む戦闘なんぞ起きよう筈もなかった。









 一方その頃――

 ヘルマンは死にかけていた。
 体の至るところには切り傷が刻まれ、左腕は既にない。
 腕や傷は復元されつつあるが、相手はその時間すらも与えてはくれない。

「これは……訓練というよりも……殺し合いではないかね?」

 息も絶え絶えに目の前の上官に問いかける。
 彼の目の前には黒い鎧を纏い、両手剣を構えるベアトリクスの姿。
 ベアトリクスによるシゴキは開戦が決まってから、激しくなる一方であった。
 その訓練は一応、模擬戦だ。
 ただし、手足がちぎれたり首を飛ばされたりすることがよくあるレベルの。


 ヘルマンはちらり、と周囲に視線を向ける。
 今日の模擬戦内容はヘルマンと同じくらいのレベルの中級魔族達200体とベアトリクスただ1人。
 数の上では圧倒的だが、開始10分でもうヘルマンしか残っていなかった。
 より正確にはヘルマンは敢えて最後に残された。

「何を言うか。このくらいでは天使を倒すことはできんぞ!」

 すっかりスイッチが入っているらしいベアトリクスは聞く耳持たない。

「限度というものが……あるんではないかねっ!」

 ヘルマンは残った右手でパンチを繰り出した。
 その突き出された拳から圧縮された魔力の弾丸がベアトリクス目がけて猛速で飛んでいく。
 ベアトリクスはその飛んできた弾丸をそのまま受けた。
 濛々たる煙が彼女を包みこむ。
 しかし、その煙は彼女から巻き起こる風によって吹き飛ばされる。

「というか、もう少し手加減してもいいのではないかね?」 
「それでは訓練にならないだろう」

 ヘルマンの一撃はベアトリクスの鎧に掠り傷一つつけることができない。
 こちらの攻撃は一切効かず、敵の攻撃は一撃でこちらを叩き潰せる、そういう絶望的な戦いであった。

「やれやれだっ!」

 ヘルマンは連続でパンチを繰り出した。
 無数の魔力の弾丸がベアトリクス目がけて飛んでいく。
 彼が『悪魔パンチ』と名付けたこの技が効かないことは百も承知。
 乱れ撃つことで傷の復元の時間を稼ぐことが目的だ。

「この、程度かっ!」

 その声と共に弾幕を突き破ってベアトリクスがヘルマンの目の前に飛んできた。
 しまった、と彼が思ったときにはもう遅かった。
 彼の視界は宙を舞った。





「……とんだ上司を持ってしまったな」

 首だけになったヘルマンはやれやれ、と溜息を吐いた。
 横から同じく首だけになっている同僚が「お疲れ様」と声を掛けてきた。

 なんだかんだでヘルマンはそれなりにうまくやっているようであった。

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