近衛詠春は難しい顔をしていた。
彼の目の前にはつい先ほど、やってきた憑きものが憑いた少女がその背中を露にしている。
少女の綺麗な背中には異物があった。
浮き出た大きな目玉が一つ。
かつて、彼女の両親はこの化物を祓おうと土着の退魔師に除霊を頼んだのだが、失敗し、少女はその背中に大きな刀傷を負っていた。
その失敗により、少女は想像を絶する苦痛を味わい、茶色かった髪や黒い瞳は変質し、アルビノのようになってしまっている。
「どうですか?」
少女の父親が真剣な面持ちで問いかけた。
「正直に申し上げまして、コレは肉体に寄生しているというよりも、霊体……いわゆる、魂とかそういうものに寄生しているようです」
詠春はそう言い、その目玉へと手をかざし、僅かに自身の気を少女へと流し込んでみる。
すると少女は苦しそうにうめき声を上げた。
すぐに詠春は気を流すのをやめ、彼女の両親へ告げる。
「この反応から、祓おうとするとコレは自己防衛の為にこの子……亜子さんを攻撃しています。聞いている限りではその退魔師が祓おうとしたとき、彼女は恐ろしい苦痛を味わった筈です」
「はい……あのとき以来、亜子の髪の色や瞳の色が……」
母親が涙混じりに告げた。
詠春はどうしたものか、と心の中で溜息を吐いた。
斬魔剣・弐の太刀ならばあるいは……退魔は可能かもしれない。
だが、失敗したときのリスクは少女――和泉亜子の死。
人質を取る実にいやらしい魔物であった。
「こういう寄生型の魔物は本来ならば外科手術のように、亜子さんへ負担を掛けている部分を切除していき、最後に大元を叩くのが常道です」
ですが、と詠春は続ける。
「どれほどこの魔物が亜子さんに根を張っているのか、見抜くのは難しい……ですので、一撃で大元を叩くというやり方になりますが……その方法はリスクが大きすぎます」
絶望的な言葉に両親は絶句し、亜子は微かに体を震わせた。
「何か、方法はないんですか……?」
詠春はその言葉に逡巡したが、頼んでみる価値はある、と思い、ゆっくりと口を開く。
「明日菜様ならおそらくコレを祓うことが可能でしょう」
「……できるのですか?」
その問いの意味はここに呼ぶことができるか、という意味であった。
一般には明日菜、すなわちアシュレイは実在しないのではないか、と言われている。
所詮は古文書に残っている程度であり、アシュレイは現代で表には出ていないが故であった。
だが、ここは陰陽寮。
その陰陽頭である近衛詠春がそう言っているのだから十分に信憑性はある。
また、日本に限ったことがないが、アシュレイがあちらこちらに出没しているおかげで、この世界ではオカルトがかなり表に出ており、こういった一般人からの除霊依頼もかなり多い。
また、ある日突然霊能力をはじめとした不思議な力に目覚める一般人もそれなりにおり、そういった民間人が参入し易いように、また差別されないように、とゴーストスイーパーという職業を作ろうと日本主導で諸々の制度の策定が各国で進んでいる。
アシュレイによる仲介で長年続いていたWTOとNATOという対立構造も数年前に和解・デタントという形で終結したが故にこうしたことができるのだ。
とはいえ、それは表面的な話でアフリカやインドはやっぱりWTO諸国の植民地であったり、南米諸国も相変わらずアメリカの経済的植民地なのだが。
ともあれ、裏側と表側がかなり接近した世界といえよう。
「やるだけの価値はあります。ただ……明日菜様に亜子さんが気に入られてしまう可能性もありますが」
詠春の言葉に両親は顔を見合わせたが、すぐにお願いします、と頭を下げた。
「……ウチ、助かるん……?」
来年で中学1年生となる亜子は蚊の鳴くような声で問いかけた。
「明日菜様と連絡が取ることができればまず助かります。その傷も無くしてくれるでしょう」
詠春も何度かアシュレイと会ったことがあり、また連絡先も知っている。
そして、亜子が少女であることから十中八九、アシュレイが助けるだろうことも想像に容易い。
それならば初めからアシュレイの話を出せばよかったのだが、詠春とて立場がある。
日本の霊的守護者の長である彼がいきなり上位存在に丸投げでは色々な意味で拙いのだ。
「少々お待ちを……」
詠春は席を立ち、応接間を後にし……すぐに彼は戻ってきた。
その隣に角と翼が生えた少女を伴って。
「あー、えーと……この方が明日菜様です」
「あ、どうも」
えらく軽いノリで彼女は登場した。
亜子の両親が呆気に取られる中、その様子がツボにはまったのか、亜子はくすくすと笑ってしまう。
微妙な雰囲気の中、明日菜は笑う亜子に近づき、その背中を観察。
「なんだ、チューブラー・ベルじゃないの」
アシュレイがそう言うや否や、おいでと手を差し出す。
するとその魔物――チューブラー・ベルはうねうねと動いて、亜子の背中からずぶりと抜けると、アシュレイの手のひらの上に。
「これ、人間界にはいない地獄に群生してる植物よ」
「何でそんなものが人間界に……」
亜子の父親の言葉にさぁ、とアシュレイは肩を竦める。
「まあ、おそらくどっかのバカが勝手に地獄と人間界を繋げたり、召喚したりして、そのままこっちに残っちゃったみたいな感じでしょう」
そう言いつつ、アシュレイがチューブラー・ベルの目の部分をつついてやればうねうねとその体を動かす。
「ちなみにコレ、食用よ? 食べる?」
詠春達はぶんぶんと首を横に振る。
「……ちょっと食べてみたいかも」
唯一、亜子は興味深げにチューブラー・ベルを見つめていた。
自分の命を奪おうとしていたものを食べようなどとは中々に豪胆な少女だ。
だが、やめときなさい、と母親に言われ亜子は渋々諦めた。
「あとは……もっかい背中見せて」
アシュレイは亜子にそう言い、背中を向けてもらうとその刀傷の痕を指でなぞった。
するとたちまちのうちにその傷痕は消えてなくなった。
おお、と詠春らは驚きの声を上げた。
「これで終わり」
パチンとアシュレイが指を鳴らせば亜子の髪の色が変化した。
水色から茶色へと。
「あ、ありがとうございます!」
両親は揃って深々と頭を下げた。
「ふふん、もっと感謝しなさい。この私が特別に治してあげたんだから……あ、お賽銭はこの陰陽寮の一角にある明日菜大社に入れて頂戴」
そう言いつつ、アシュレイはどこからともなく手鏡を取り出し、それを背中を向けている亜子に渡した。
彼女はまず自分の髪色と瞳に驚き、そして背中を見て歓喜した。
「治ったんや! ウチ治ったんや!」
叫ぶ亜子。
ひたすらに感謝する両親。
そして、高笑いする魔王。
何だかおかしな光景である。
一応、明日菜=アシュタロスということは日本でも知られている。
だが、日本の良いところは八百万の神々という概念だ。
何でもかんでもどんなものにも神様がいる、という概念は極めて特殊であり、また他の宗教の神々や悪魔も簡単に受け入れてしまう。
そんなわけで、良いことも悪いこともする神様という形でアシュレイは受け入れられてしまったのである。
故に明日菜=アシュタロスと知られていても、日本では親しみを込めて明日菜様と呼ばれるわけであった。
そして、何よりもアシュレイは自分を崇める者に対しては優しい。
彼女が何の対価も無しに、また威圧感すら出さずにこんなことをするのは日本限定であった。
「ところで明日菜様。何故、ここに?」
「祇園で一杯やろうと思った」
その言葉に和泉家のお父さんお母さんは呆気に取られた。
亜子は意味が分からないのか、首を傾げている。
詠春は溜息を吐きつつも、口を開く。
「と、ともかく、これで終わりました」
詠春の言葉に亜子があのー、と恐る恐る声を出した。
「今更言うのもアレですけど……その、前の髪色とかも実は結構気に入ってたりで……」
両親や詠春が呆気に取られる中、アシュレイはうんうんと頷く。
「どうする? とりあえず好きに色変えられるスプレーか何か渡しておく?」
「あ、お願いできます?」
「いいわよ。あとで届けるから。あ、名前教えて頂戴」
「和泉亜子です、よろしゅうお願いします」
ぺこり、とお辞儀する亜子。
「うんうん、礼儀正しい子は好きよ。悪い子をしつけるのも好きだけど」
さらりと問題発言しつつ、んー、とアシュレイは亜子をじろじろと観察。
「やっぱり茶色もいいけど、前の髪色の方が似合ってると思うわ。何よりも、個性って大事よ? あの髪色は中々特殊だけど、あなたは似合ってたから変な目で見られることもないと思う」
「そうですよね? ほんまあれはとーっても痛かったんですけど、でも、髪と瞳の色はよかったと思っていたんですよー」
そんな感じで展開されるガールズトーク。
伊達にアシュレイも女の子していない。
10代の少女の会話に充分ついていけてしまう。
「ウチ、ピアスとか開けたいんですけど、おとんもおかんも駄目って言いはるんですよ。もうヤケだーって感じもあったんですけど、やっぱり死ぬなら綺麗に死にたいなって」
「ピアスは毎日の手入れが大変よ? あと穴開けるときに安く抑えようとしちゃ駄目」
「えー、そうなんですか? うーん、どうしようかなぁ」
盛り上がる2人を余所に詠春は疲れた顔で亜子の両親に告げる。
「こういう、人間みたいな方なんです。親しみ易いんですが……」
とっても疲れます、と小さく詠春は呟いた。
両親は何だか狐か狸に化かされたような気分であったが、とりあえず娘が元気になってあんな風に笑ってくれているのなら、と問題なしとした。
勿論、ピアスはそれとこれとは別問題であるのは言うまでもなかった。