アシュレイは珍しく人間と関わろうとしていた。
妙神山でレイチェルとエヴァンジェリンの顔を見つつ、フレイヤと密会。
その後に気分がいいから、ちょっと今の日本を見ておこう、とやってきたのだ。
基本、日本は何でもかんでも他所のものを取り入れてしまう。
それは宗教にも言えることで、元々仏教は中国・朝鮮から伝わったものだ。
異教の悪魔であるアシュレイが関わっても、人間に対して良い行いをすれば八百万の神の一つに数えられる程度で特にペナルティはない。
そればかりか、僅かながら信仰を得ることすらできるかもしれない。
今、この時代、日本は南北朝時代の末期であり、あと十数年もすれば統一される。
さて、そんな時代であったが、アシュレイとしては全く関係がない。
南北の都にあるだろう神器を盗みにいく、というのもあんまり興味が惹かれない。
そんなわけで天皇などの皇室関係者や貴族などではなく、彼女は田舎の人間と関わることにした。
適当に探索魔法を展開し、発見したちっぽけな集落。
川の東岸にある山地の中にそれはあった。
アシュレイは近くの森の中に降り立ち、少女形態のまま、その集落へと向かう。
「なんじゃ、えろう別嬪さんがきたのぅ」
集落の近くで木を切っていたきこりの中年男性がアシュレイを見てそう言った。
この時代、アシュレイの外見年齢では既に立派な大人である。
「あ、どうも。私、赤朱令と言います」
「ほぅ、変わった名前じゃなぁ。暇ならうちの村に寄ってんか?」
「では遠慮なく」
わりとあっさりとアシュレイは村に招かれた。
小さな村であり、その人口は200人足らず。
そのほとんどがご近所さんであり、きこりの男はアシュレイを紹介して回った。
見るからに異国の服装をしている彼女に村人達は興味津々。
とりあえず、と案内された広場でゴザを敷かれ、そこでアシュレイへの質問会が催された。
老若男女から様々な質問を受けるアシュレイは華麗に答えを返していく。
30分もすれば皆聞きたいことを聞き終えたのか、質問者もいなくなった。
そのときであった。
「空はどうして青いのか、知ってん?」
そんな声が聞こえてきた。
村の大人達はやれやれ、といった感じの顔となる。
「夕吉! お前はまた変なことを言って!」
誰かが言った。
「知りたいからしょうがないじゃん」
アシュレイは視線を向けた。
そこには紫に黒を混ぜたのような髪色の青年がいた。
「なぁ、赤朱や。教えて」
そう言う彼――夕吉にきこりの男が怒鳴った。
「赤朱ちゃんに何をぬかしおる! 孤児だからと働きもせんで年がら年中、変なこと考えて!」
そうだそうだ、という声が上がる。
そんな彼らを無視して、じーっとアシュレイは夕吉を見つめる。
その視線に気づいた彼は再び言った。
「教えてや。俺の勘が言ってん。赤朱は知ってるって」
「しつこいぞ! 赤朱ちゃんが困るだろ!」
きこりの男はそう言った直後、アシュレイはゆっくりと口を開いた。
「空が青いのは空気による光の散乱よ」
「空気って何?」
「主に窒素と酸素で構成される地球の大気のこと。人間が生きるのに必要とされるものよ。水の中でずっといれば空気がないから溺れて死んでしまうの」
「地球は?」
「私達が今、立っているところのことよ。日の本だけじゃなく、海を超えた先にある土地なんかも全部地球よ。ここは1つの星なの」
「星? お月さんとかと同じ?」
「ええ。私達は丸い星の上に乗っているの。だけど、落ちないのは重力とか引力があるからよ」
「赤朱ちゃん、分かるのか? そいつの答えが」
きこりの問いにアシュレイは頷く。
「彼、中々いいと思うの。だから、私がしばらく借りる。学問を教えようと思うの」
貪欲な生徒というのは中々得難いものである。
アシュレイのちょっとした興味と暇つぶしから、彼に色々と叩き込もうと思ったのだ。
「それと、ちょっと畑や水田とか川を見せて欲しいの」
有無を言わさない妙な迫力に村人達は頷かざるを得なかった。
そして、月日は流れる。
夏が過ぎ、秋がきたとき、村に異変が起こった。
それはいい意味での異変。
豊作であった。
アシュレイは滞在料として兼ねて畑や水田の土壌そのものを魔法で改良し、また川の治水も魔法で行った。
土壌改良は目に見えないが、治水に関しては別であった。
村人達からすれば魔法陣も何も現れておらず、ただ勝手に土がむくむくと盛り上がり、あっという間に堤防が完成してしまったのだ。
不思議なこともあるもんじゃ、仏様の御慈悲か、とそれで納得していた彼らだったりする。
そんな村人達は夕吉のことを気にも留めなくなっていた。
彼はアシュレイのお世話係兼生徒となって以来、村人達からすればおかしなことを口に出さなくなったのだ。
また、アシュレイと一緒に新しい農具を作ったり、怪我人の手当をしたり、と精力的に働いた。
それにより村人達との間にあった確執も消えてなくなるどころか、夕吉は頼れる存在となっていた。
昼間は働き、夜になれば夕吉はアシュレイに様々な質問をぶつける生活であった。
そして、アシュレイはというと、1ヶ月が過ぎた辺りでこの村の領主――名目上は領主だが実質的な村長――である松平親氏に屋敷へ呼ばれた。
異国のことについて聞かれたり、ついで村の発展に貢献してくれていることに感謝されたりした。
人の良い彼はアシュレイの為に、と彼が陣頭指揮を取り、村人総出で一軒家を造り、譲渡した。
女の身でありながら様々なことに精通し、怪我の手当や病気の治療もできるアシュレイは薬師もいない小さな村にとっては得難い存在であった。
そして、ある日の夜――
「赤朱、人間は何か?」
「表向きには猿が進化したということになってるけど、実際は神々と悪魔が造ったのよ」
「神さんは仏さんのことか?」
「似たようなもんね。他に異教の神や天照大御神とかも関わってる」
「造った理由は?」
「信仰を得る為よ。信仰を得れば神々の力は増す。勿論、悪魔が信仰を得ることができれば悪魔も力を増す。だけど、普通悪魔を信仰する人間はいないでしょ?」
アシュレイの問いかけに頷く夕吉。
「そこで悪魔には特典がついてるの。どれだけ恐怖されるか、で悪魔は力を増すことができる。他にも人間達は正の感情か、負の感情かでも神族や魔族は力を得るわ」
なるほど、と頷く夕吉。
彼はすかさずアシュレイからもらった万年筆で同じくもらったノートに書いていく。
まだこの時代にはどちらも存在しないどころか、魔法が掛かっており、万年筆は永久にインクが尽きない。
そして、ノートは見た目こそ数cm程だが、そのページ数は無限。
また、どちらも防水防火その他諸々考えられる全てのことから防護される。
勉強したり、記録するには最適のものだ。
「他にも聞きたいことは? もうかなり答えたと思うけども」
アシュレイが村にきてから数ヶ月。
彼女はその間、夕吉の質問に答えていたのだ。
「なら……赤朱は何者か?」
「やっとその質問ね……普通は最初に聞くもんだと思うんだけど」
「それよりも優先されることがあったからな。俺が思うに……仏ではない……そうだら?」
その問いにアシュレイは頷く。
「私、異教の悪魔だもの。向こうでの名前は……」
言いかけて彼女は止まった。
「どうした?」
「言霊。私が私の名前を言うと、たぶん常人は耐えられないわ」
力あるものの名前には力が宿る。
人間が扱う魔法や術にもそういった上位存在の名前を使い、その存在が持つ力の極一部を借りて攻撃したりする。
地獄屈指の魔王であるアシュレイが自分で自分の名前を神族や魔族、人間なら魔法使いや陰陽師などそういった者以外に名乗ればそれだけで相手がダメージを受けてしまう可能性があった。
「書くわ。ま、それでも力が残ってしまうけど」
アシュレイはカタカナで自らの名を彼のノートに書き記す。
ついでに彼女の紋章も描いておく。
上級魔族以上であるなら誰でも持っている、最も自分と関わり深いものを示したものだ。
これだけでもはや彼のノートは一級の魔導書と化した。
彼女自身が記した名前と紋章に魔力を流し、彼女に願うことで人間の扱う魔法よりも大きな効果を引き起こすことができるだろう。
「……凄い」
夕吉はそう呟いた。
魔力をほとんど持たない彼からしても、ノートから放たれる力に気がついたのだ。
「あ、私の名前をなるべく声に出しちゃ駄目よ。面倒くさいことが起こるかもしれない」
「今だけ、出してみても?」
色々と聞いてきた彼は好奇心の塊。
抑えられる筈がない。
そこら辺、彼女もよく知っていたので、頷き許可を出した。
「アシュタロス」
瞬間、灯りが消え、まだ秋だというのにまるで冬のような冷気が部屋を包みこんだ。
「わかった?」
数秒後、アシュレイはそう尋ねつつ、もはや隠す必要も無くなったので指先を燭台にあるろうそくへと向け、火をつける。
夕吉の顔は興奮に染まり、その体は震えている。
「あ、私がいることがバレたら、うるさい連中がいるから気をつけてね」
彼はその言葉に生返事を返す。
ま、その反応も当然か、とアシュレイは思い、別に何も言わない。
迷信などは日本各地にあり、また妖怪なども実際に出現したりしているが、本物の神様や悪魔が実際に降臨した、というのは中々ない。
例えそれがアシュレイという異教の悪魔であっても、そういう存在に会うということはちょっとした感動を巻き起こすのもしょうがないだろう。
これがヨーロッパだったら、すぐにエクソシストが飛んで来るわね、とアシュレイは思わず苦笑いしてしまう。
色々な意味で寛容な日本だからこその反応だろう。
やがてアシュレイは夕吉の興奮が収まるのを待って告げる。
「もうそのノートと万年筆、あなたの家系の家宝にでもしちゃいなさい」
「わかった……赤朱、俺はお前とのことを絶対に忘れない。お前はいずれここから去るだろうが、俺は忘れない。子々孫々、これらと共にお前のことを伝えていく」
じっと真剣な顔で見つめてる夕吉にアシュレイは素直に告げた。
「ありがとう……でも、私はあくまで悪魔よ」
「……何じゃそれは。言葉遊びか?」
夕吉のツッコミにアシュレイはハッとし、首をぶんぶん左右に振り、咳払いを一つ。
「とにかく、私は私を崇める人間以外は虫けらと思ってる。実際にそういう風に行動している。人間を殺しもするし、食べもするし、攫いもする」
「お前を信仰すればいいんだな」
「……そういう軽く言われると、何だかなぁ……というか、私がそういう存在だって知っても、お前呼ばわりとか……」
「細かいことは気にしないのが大物だら!」
きっぱり言い切られるとアシュレイとしては追求する気も失せてしまう。
「村の皆は赤朱のことを仏の使いか何かと思ってん。どうしよけ?」
何しろ、アシュレイが来て以後、急に村は活気に満ちたのだ。
怪我や病は治り、実り豊か、熊や狼は森の奥深くにでも入らなければ遭うことが無くなった。
まさに世界が一変したに等しい。
「……そうね、そのままにしておきましょう。一芝居打って妙なことになるよりは余程マシ……ま、一応、私がここを去るときは手紙でも残しておきましょう」
「松平様には伝えてってくれ。あの人はいい方だ。俺の質問をしっかり考えた上で、分からないと言ってくれた」
夕吉からすれば真面目に問答に付き合ってくれる親氏は煙たがられていた過去において、有り難い存在であった。
「わかったわ。そうね……あまり長くいると成長しないのがバレてしまうから、1年か2年後には出て行くわ。あなたに分かりやすく言うなら、地獄に帰る」
「地獄に家があるのか? さすがというか何と言うか……」
呆れたような感心したような彼にアシュレイはくすくすと笑ったのだった。
そして、2年後、アシュレイは帰ることにした。
夕吉は名残り惜しかったが、それでも引き止めたりはしなかった。
彼女は親氏に自らの正体を告げ、これから日の本を導くことになるだろう彼の子孫へ幾つかの書物を残した。
それらの書物もまた夕吉のノートと同じく無限のページ数を誇り、様々なことが書かれていた。
国家の構築からはじまり、非常事態における対処法、農業や工業などの発展のさせ方、果ては農具の作り方からロケットの作り方まで非常に事細かに。
アシュレイは気になって親氏の子孫達が辿るだろう人生を夢で覗いたのだ。
ちっぽけな集落の村長の子孫達はやがて三河地方を持ち、最後には日本を持つ。
彼女は見て、思わず笑ってしまった。
松平親氏の子孫は徳川家康であったのだから。
妙神山でレイチェルとエヴァンジェリンの顔を見つつ、フレイヤと密会。
その後に気分がいいから、ちょっと今の日本を見ておこう、とやってきたのだ。
基本、日本は何でもかんでも他所のものを取り入れてしまう。
それは宗教にも言えることで、元々仏教は中国・朝鮮から伝わったものだ。
異教の悪魔であるアシュレイが関わっても、人間に対して良い行いをすれば八百万の神の一つに数えられる程度で特にペナルティはない。
そればかりか、僅かながら信仰を得ることすらできるかもしれない。
今、この時代、日本は南北朝時代の末期であり、あと十数年もすれば統一される。
さて、そんな時代であったが、アシュレイとしては全く関係がない。
南北の都にあるだろう神器を盗みにいく、というのもあんまり興味が惹かれない。
そんなわけで天皇などの皇室関係者や貴族などではなく、彼女は田舎の人間と関わることにした。
適当に探索魔法を展開し、発見したちっぽけな集落。
川の東岸にある山地の中にそれはあった。
アシュレイは近くの森の中に降り立ち、少女形態のまま、その集落へと向かう。
「なんじゃ、えろう別嬪さんがきたのぅ」
集落の近くで木を切っていたきこりの中年男性がアシュレイを見てそう言った。
この時代、アシュレイの外見年齢では既に立派な大人である。
「あ、どうも。私、赤朱令と言います」
「ほぅ、変わった名前じゃなぁ。暇ならうちの村に寄ってんか?」
「では遠慮なく」
わりとあっさりとアシュレイは村に招かれた。
小さな村であり、その人口は200人足らず。
そのほとんどがご近所さんであり、きこりの男はアシュレイを紹介して回った。
見るからに異国の服装をしている彼女に村人達は興味津々。
とりあえず、と案内された広場でゴザを敷かれ、そこでアシュレイへの質問会が催された。
老若男女から様々な質問を受けるアシュレイは華麗に答えを返していく。
30分もすれば皆聞きたいことを聞き終えたのか、質問者もいなくなった。
そのときであった。
「空はどうして青いのか、知ってん?」
そんな声が聞こえてきた。
村の大人達はやれやれ、といった感じの顔となる。
「夕吉! お前はまた変なことを言って!」
誰かが言った。
「知りたいからしょうがないじゃん」
アシュレイは視線を向けた。
そこには紫に黒を混ぜたのような髪色の青年がいた。
「なぁ、赤朱や。教えて」
そう言う彼――夕吉にきこりの男が怒鳴った。
「赤朱ちゃんに何をぬかしおる! 孤児だからと働きもせんで年がら年中、変なこと考えて!」
そうだそうだ、という声が上がる。
そんな彼らを無視して、じーっとアシュレイは夕吉を見つめる。
その視線に気づいた彼は再び言った。
「教えてや。俺の勘が言ってん。赤朱は知ってるって」
「しつこいぞ! 赤朱ちゃんが困るだろ!」
きこりの男はそう言った直後、アシュレイはゆっくりと口を開いた。
「空が青いのは空気による光の散乱よ」
「空気って何?」
「主に窒素と酸素で構成される地球の大気のこと。人間が生きるのに必要とされるものよ。水の中でずっといれば空気がないから溺れて死んでしまうの」
「地球は?」
「私達が今、立っているところのことよ。日の本だけじゃなく、海を超えた先にある土地なんかも全部地球よ。ここは1つの星なの」
「星? お月さんとかと同じ?」
「ええ。私達は丸い星の上に乗っているの。だけど、落ちないのは重力とか引力があるからよ」
「赤朱ちゃん、分かるのか? そいつの答えが」
きこりの問いにアシュレイは頷く。
「彼、中々いいと思うの。だから、私がしばらく借りる。学問を教えようと思うの」
貪欲な生徒というのは中々得難いものである。
アシュレイのちょっとした興味と暇つぶしから、彼に色々と叩き込もうと思ったのだ。
「それと、ちょっと畑や水田とか川を見せて欲しいの」
有無を言わさない妙な迫力に村人達は頷かざるを得なかった。
そして、月日は流れる。
夏が過ぎ、秋がきたとき、村に異変が起こった。
それはいい意味での異変。
豊作であった。
アシュレイは滞在料として兼ねて畑や水田の土壌そのものを魔法で改良し、また川の治水も魔法で行った。
土壌改良は目に見えないが、治水に関しては別であった。
村人達からすれば魔法陣も何も現れておらず、ただ勝手に土がむくむくと盛り上がり、あっという間に堤防が完成してしまったのだ。
不思議なこともあるもんじゃ、仏様の御慈悲か、とそれで納得していた彼らだったりする。
そんな村人達は夕吉のことを気にも留めなくなっていた。
彼はアシュレイのお世話係兼生徒となって以来、村人達からすればおかしなことを口に出さなくなったのだ。
また、アシュレイと一緒に新しい農具を作ったり、怪我人の手当をしたり、と精力的に働いた。
それにより村人達との間にあった確執も消えてなくなるどころか、夕吉は頼れる存在となっていた。
昼間は働き、夜になれば夕吉はアシュレイに様々な質問をぶつける生活であった。
そして、アシュレイはというと、1ヶ月が過ぎた辺りでこの村の領主――名目上は領主だが実質的な村長――である松平親氏に屋敷へ呼ばれた。
異国のことについて聞かれたり、ついで村の発展に貢献してくれていることに感謝されたりした。
人の良い彼はアシュレイの為に、と彼が陣頭指揮を取り、村人総出で一軒家を造り、譲渡した。
女の身でありながら様々なことに精通し、怪我の手当や病気の治療もできるアシュレイは薬師もいない小さな村にとっては得難い存在であった。
そして、ある日の夜――
「赤朱、人間は何か?」
「表向きには猿が進化したということになってるけど、実際は神々と悪魔が造ったのよ」
「神さんは仏さんのことか?」
「似たようなもんね。他に異教の神や天照大御神とかも関わってる」
「造った理由は?」
「信仰を得る為よ。信仰を得れば神々の力は増す。勿論、悪魔が信仰を得ることができれば悪魔も力を増す。だけど、普通悪魔を信仰する人間はいないでしょ?」
アシュレイの問いかけに頷く夕吉。
「そこで悪魔には特典がついてるの。どれだけ恐怖されるか、で悪魔は力を増すことができる。他にも人間達は正の感情か、負の感情かでも神族や魔族は力を得るわ」
なるほど、と頷く夕吉。
彼はすかさずアシュレイからもらった万年筆で同じくもらったノートに書いていく。
まだこの時代にはどちらも存在しないどころか、魔法が掛かっており、万年筆は永久にインクが尽きない。
そして、ノートは見た目こそ数cm程だが、そのページ数は無限。
また、どちらも防水防火その他諸々考えられる全てのことから防護される。
勉強したり、記録するには最適のものだ。
「他にも聞きたいことは? もうかなり答えたと思うけども」
アシュレイが村にきてから数ヶ月。
彼女はその間、夕吉の質問に答えていたのだ。
「なら……赤朱は何者か?」
「やっとその質問ね……普通は最初に聞くもんだと思うんだけど」
「それよりも優先されることがあったからな。俺が思うに……仏ではない……そうだら?」
その問いにアシュレイは頷く。
「私、異教の悪魔だもの。向こうでの名前は……」
言いかけて彼女は止まった。
「どうした?」
「言霊。私が私の名前を言うと、たぶん常人は耐えられないわ」
力あるものの名前には力が宿る。
人間が扱う魔法や術にもそういった上位存在の名前を使い、その存在が持つ力の極一部を借りて攻撃したりする。
地獄屈指の魔王であるアシュレイが自分で自分の名前を神族や魔族、人間なら魔法使いや陰陽師などそういった者以外に名乗ればそれだけで相手がダメージを受けてしまう可能性があった。
「書くわ。ま、それでも力が残ってしまうけど」
アシュレイはカタカナで自らの名を彼のノートに書き記す。
ついでに彼女の紋章も描いておく。
上級魔族以上であるなら誰でも持っている、最も自分と関わり深いものを示したものだ。
これだけでもはや彼のノートは一級の魔導書と化した。
彼女自身が記した名前と紋章に魔力を流し、彼女に願うことで人間の扱う魔法よりも大きな効果を引き起こすことができるだろう。
「……凄い」
夕吉はそう呟いた。
魔力をほとんど持たない彼からしても、ノートから放たれる力に気がついたのだ。
「あ、私の名前をなるべく声に出しちゃ駄目よ。面倒くさいことが起こるかもしれない」
「今だけ、出してみても?」
色々と聞いてきた彼は好奇心の塊。
抑えられる筈がない。
そこら辺、彼女もよく知っていたので、頷き許可を出した。
「アシュタロス」
瞬間、灯りが消え、まだ秋だというのにまるで冬のような冷気が部屋を包みこんだ。
「わかった?」
数秒後、アシュレイはそう尋ねつつ、もはや隠す必要も無くなったので指先を燭台にあるろうそくへと向け、火をつける。
夕吉の顔は興奮に染まり、その体は震えている。
「あ、私がいることがバレたら、うるさい連中がいるから気をつけてね」
彼はその言葉に生返事を返す。
ま、その反応も当然か、とアシュレイは思い、別に何も言わない。
迷信などは日本各地にあり、また妖怪なども実際に出現したりしているが、本物の神様や悪魔が実際に降臨した、というのは中々ない。
例えそれがアシュレイという異教の悪魔であっても、そういう存在に会うということはちょっとした感動を巻き起こすのもしょうがないだろう。
これがヨーロッパだったら、すぐにエクソシストが飛んで来るわね、とアシュレイは思わず苦笑いしてしまう。
色々な意味で寛容な日本だからこその反応だろう。
やがてアシュレイは夕吉の興奮が収まるのを待って告げる。
「もうそのノートと万年筆、あなたの家系の家宝にでもしちゃいなさい」
「わかった……赤朱、俺はお前とのことを絶対に忘れない。お前はいずれここから去るだろうが、俺は忘れない。子々孫々、これらと共にお前のことを伝えていく」
じっと真剣な顔で見つめてる夕吉にアシュレイは素直に告げた。
「ありがとう……でも、私はあくまで悪魔よ」
「……何じゃそれは。言葉遊びか?」
夕吉のツッコミにアシュレイはハッとし、首をぶんぶん左右に振り、咳払いを一つ。
「とにかく、私は私を崇める人間以外は虫けらと思ってる。実際にそういう風に行動している。人間を殺しもするし、食べもするし、攫いもする」
「お前を信仰すればいいんだな」
「……そういう軽く言われると、何だかなぁ……というか、私がそういう存在だって知っても、お前呼ばわりとか……」
「細かいことは気にしないのが大物だら!」
きっぱり言い切られるとアシュレイとしては追求する気も失せてしまう。
「村の皆は赤朱のことを仏の使いか何かと思ってん。どうしよけ?」
何しろ、アシュレイが来て以後、急に村は活気に満ちたのだ。
怪我や病は治り、実り豊か、熊や狼は森の奥深くにでも入らなければ遭うことが無くなった。
まさに世界が一変したに等しい。
「……そうね、そのままにしておきましょう。一芝居打って妙なことになるよりは余程マシ……ま、一応、私がここを去るときは手紙でも残しておきましょう」
「松平様には伝えてってくれ。あの人はいい方だ。俺の質問をしっかり考えた上で、分からないと言ってくれた」
夕吉からすれば真面目に問答に付き合ってくれる親氏は煙たがられていた過去において、有り難い存在であった。
「わかったわ。そうね……あまり長くいると成長しないのがバレてしまうから、1年か2年後には出て行くわ。あなたに分かりやすく言うなら、地獄に帰る」
「地獄に家があるのか? さすがというか何と言うか……」
呆れたような感心したような彼にアシュレイはくすくすと笑ったのだった。
そして、2年後、アシュレイは帰ることにした。
夕吉は名残り惜しかったが、それでも引き止めたりはしなかった。
彼女は親氏に自らの正体を告げ、これから日の本を導くことになるだろう彼の子孫へ幾つかの書物を残した。
それらの書物もまた夕吉のノートと同じく無限のページ数を誇り、様々なことが書かれていた。
国家の構築からはじまり、非常事態における対処法、農業や工業などの発展のさせ方、果ては農具の作り方からロケットの作り方まで非常に事細かに。
アシュレイは気になって親氏の子孫達が辿るだろう人生を夢で覗いたのだ。
ちっぽけな集落の村長の子孫達はやがて三河地方を持ち、最後には日本を持つ。
彼女は見て、思わず笑ってしまった。
松平親氏の子孫は徳川家康であったのだから。