こんにちは新石器時代


「……はぁ?」

 間の抜けた声。
 辺り一面の草原。
 空には燦々と輝く太陽。

「え? え? えええ!?」

 思わず叫んだ。
 人っ子一人いないどころか、動物も見渡す限りはいない。
 頬を撫でていく爽やかな風。普段なら気分が良くなるところだが、さすがにこんな状況でいい気分になれるわけがなかった。
 ともあれ、現状を把握すべく妙に低くなった視線に気になりながらも、辺りを見回す。
 すると少し離れたところに小さな麻袋が落ちている。

「……なんだこれ?」

 中身を開けてみると業務用茶封筒と女物の衣類……それも真っ黒なフリル付きのワンピースや下着、そして数冊の本とノート、筆記用具が入っていた。
 封筒を開けて中を見れば、そこには数枚の便箋。
 1枚目のそれを食い入るようにそれを読み終え、ぺたんと、地面にへたりこむ。

「神も悪魔もあったもんじゃない……」

 その呟きはまさに的確であった。
 便箋にはこう書かれていた。



『ども、キーやんです。
 サッちゃんから聞いてるかもしれませんが、あなたは諸々の事情により、その世界の滅亡を防ぐ為に選ばれたので色々と悪さしてください。
 あ、どんな悪行を行っても天罰とかはしないので、自分の国を作るなり何なり好き勝手しちゃってくださいね。
 で、あなたは吸血鬼に極めて近い魔族になってます。もう人間じゃないですので安心してください。
 ただ少々急ぎ仕事だったので、現段階では怪力と体の頑丈さなどの身体能力、そして不老不死ということくらいで、膨大な魔力とか特殊能力とかそういうものはありません。
 同封した本でも読んで頑張って修行して身につけてください。
 それとあくまで吸血鬼に近い魔族なので、吸血鬼特有の弱点とかはありません。
 吸血して眷属を作ることはできますけど。
 良心に苛まれることなく、悪い心でどんどこやっちゃってください。
 私の加護があることを。
                        神界最高指導者 キーやん』


 ここまで悪いことやってね、と言われると逆にする気がなくなってしまう。
 そんなことを思いつつ、2枚目の便箋に目を移す。
 そこには追伸が書いてあった。

『私からの試練として女の子にしておきました。あ、正確には両性具有ですので。こういうアブノーマルとか背徳的かつ背信的でいいですよね。まあ、神も悪魔もたいていは両性具有なんですけど。あ、私は男ですよ?
 ともあれ、この試練の他にも幾つか与えるかもしれません。全部に耐え抜いたらきっと魔界で魔王になれるかもしれませんし、私からも何かあげます。
 それと今、あなたがいる時代は紀元前8000年くらいです。
 将来的に私の分霊が生まれてきますけど、悪魔として振舞ってくださいね。
 それがあなたにできる善行です。                     』


「……現実を直視しろ、とつまりそういうことですね」

 盛大なため息を吐いて、彼――両性具有だが、一応見た目で判断すれば――彼女は自分の体へと視線を移す。
 膨らんだ胸、高い声、そして、風に靡いている長く艶やかな黒髪。
 
「ああ、不幸だ……」

 神にも悪魔にもある意味、弄ばれている彼女であった。






 しばらく途方に暮れていた彼女であったが、ここにいてもどうしようもない、ととりあえずどっか行くことにした。
 勿論、目的地などない。
 適当に歩いていればどこかに出るだろう……そんな感じだ。

 しかしながら、彼女の予想に反して歩けど歩けど、風景は変わらず。
 たまに見たこともない小動物や鳥と出くわす程度であり、残念ながら人はいない。
 よく見れば生えている草なども何だか微妙に現代のものとは異なっている。
 本当に夢ではなく石器時代だ、と嘆息して、もうどうにでもなれ、と草原に寝転がった。
 元の場所でも見慣れた青い空に白い雲がゆっくりと流れている。

「……空はいつも変わらないってか?」

 そう呟きつつ、これからどうするか考える。

「普通に考えて、言葉が通じないし、文字もまだないだろうから筆談もできない……」

 いや、そもそもこんな格好――部屋にいたときのスウェットのまま――で現れたら外敵として攻撃されかねない、そう思った彼女はまた一つ溜息を吐く。
 この時代においてスウェットなどという衣類は存在していない。見る人からは変なものにしか見えないだろう。
 紀元前8000年ではまだローマやギリシャもなく、エジプトの古王国時代が始まったところだ。

「……ひとりぼっち、か」

 物悲しい気分となり、彼女はまた溜息を吐く。
 
「もう本当に悪魔になってやる……悪魔以上に悪魔になって神も悪魔も潰したる……」

 呪詛のような言葉を吐いてみたものの、元気のかけらも出てこない。
 
「……とりあえず寝床を探すかな。まあ、吸血鬼だし、1日中歩いても大丈夫だろう……」

 この時代の空気をたっぷり吸って、堪能しておくのも悪くないかもしれない、と思うことで無理矢理彼女はポジティブな気持ちへともっていく。
 一度そういう風に考えるとわりと気持ちはすんなり切り替わるもので、この時代をどう堪能するか、とそういう考えが湧いてきた。

「……もしかして、この時代の生物とか植物を生きたまま保存できれば将来的に学者に売って大儲けできるかも?」

 西暦2000年まで保存しておく、と仮定するとおよそ1万年程、しっかりと保存せねばならない。
 常識的に、あるいは普通に考えれば無理だが、その普通とか常識とかが完全に壊されている彼女である。
 非常識なことに遭うと、そういう風に壊れても仕方がない。
 彼女には何とかなりそうな根拠のない自信があった。

「突破口は本かな?」

 麻袋から本を1冊取り出してみる。
 ご丁寧に日本語で『魔族入門 はじめてのわるいこと』と書かれている。
 なんだか妙なネーミングセンスだが、1ページ目を開いて著者に『サッちゃん』とあって諦めた。
 何かその他にも『リっちゃん』とか『アスやん』とか色々と本能的に嫌な予感がする名前があったが気のせいだと彼女は思い込むことにする。
 その本を麻袋に戻して、残りの本を取り出してみた。

 彼女が呆れて物も言えなくなる題名と著者の数々。
 
『魔王になる為の10の実践』
『魔法科学の全て』
『魔法入門 まほうってなぁに?』
『魔法マスター 魔法のすべて』
『武術入門』
『武術全書』
『錬金術 あなたも金で一攫千金を』
『数理的思考』


「……なんか斉天大聖ってどっかで聞いたような……」

 『武術入門』と『武術全書』の著者の1人に思わず首を傾げる彼女だが、とりあえず他の本の著者も彼女は見てみる。
 一番分かりやすく名前を載せていたのは『魔法科学の全て』や『数理的思考』などの著者アシュタロスだろう。
 とりあえず、彼女は何だか知らないが自分が悪魔達から凄く支援されているらしいと感じた。

「まあ、とりあえず寝床の確保だ。近くに小川とかがあるといいな」

 本を全て袋に戻し、彼女は再び歩み始めた。





 さらに数時間歩き、夕暮れ時、彼女は森にたどり着いた。
 木々はやはり違うものばかり。
 やれやれ、と溜息一つ。
 薄暗い中、しばらく歩いていると大きな岩が一つ鎮座していた。
 どっかから雨なり何なりで転がってきたのだろうか、と彼女が思ったそのとき。
 彼女の鋭敏となってしまった聴覚が水の流れる音を捉えた。
 この時代の水はきっと環境汚染もなく美味いに違いない、そう確信し、彼女は足早に音の方へと向かった。


 吸血鬼の身体能力をもってすれば1分と掛からずにその場に辿り着くことができた。
 小川……と表現するには少々大きい川があった。
 水面は透き通り、川底や、小魚が泳いでいるのが見える。

 とりあえず彼女は手で水を掬い、一口飲む。

「うまい」

 市販されているおいしい水とかよりも余程美味い、と思った彼女はこの辺に居を構えることに決めた。
 幸いにも、恐竜でも襲ってこない限り吸血鬼に敵はない。
 そして、その恐竜もとうの昔に絶滅している。

「……あれ? わりと現代よりもストレスのない生活がおくれる?」

 ストレスを与える存在自体がないのだからそれも当然。
 彼女は上機嫌となり、鼻歌混じりで近場で寝ることができる場所を探すことにした。



 さらに数時間が経過し、太陽は完全に地平線に沈み、辺りが暗闇に支配される。
 未だ人類は暗闇に潜む獣に対抗する術を持たない。
 この時代では火を焚き、絶えず明るくしていなければならない。
 だが、そんなこの時代の常識に真っ向から喧嘩を売っている輩が存在した。

「ふんふんふーん」

 鼻歌混じりで彼女は木を怪力でもって折り、丸太を地面に刺していく。
 当初の予定とは微妙に目的が変わっているが、彼女は気づかない。
 今の彼女は自分の領地を作るのに夢中だ。
 それからさらに10本ほどの丸太を地面に突き刺したところで彼女は手を止めた。

「ふぅ……ようやく、私の領地が完成だわ」

 川をまたいで丸太で適当な広さで囲む。
 すると丸太で隔離された空間が出来上がりだ。川が囲いの中を流れているので飲み水の確保もしっかりとできている。
 丸太の長さはおよそ数m、それなりに太く頑丈だ。まず余程の化け物でも来ない限りは安全といえる。
 たとえ丸太の塀を超えたとしても、その中にいるのは吸血鬼。
 襲う方が可哀想なのは言うまでもない。
 ただ問題は川が氾濫したとき、水浸しになることだが……そこまで彼女は考えなかった。

「さて、とりあえずは……寝るか」

 本と黒いワンピースを石を積み上げて作った机のようなところに置き、麻袋を地面に引く。
 そして、その上に寝転がる。
 さすがに風邪を引いたりはしないだろう、という彼女の判断。
 吸血鬼が風邪を引くなどとは喜劇にもならない。

「……星が綺麗だ」

 彼女が木々をなぎ倒した為に丸太の囲いの中は空が丸見えだ。
 雨除けも作らないとなぁ、と思いつつ、現代では見ることができない星空を堪能する。
 宝石を散りばめたようなその星空を彼女は記録に残したい、と強く思う。

「どうにかできないものか……」

 魔法とかでどうにかなるのかな、と思いつつ、ゆっくりと目を閉じる。
 全ては明日、日が登ったら……そう考えて。








「……って、そういえば吸血鬼になったのだった」

 吸血鬼の生活時間は言うまでもなく夜。
 なんだか目が冴えて仕方がない彼女。
 本でも読むか、ととりあえず魔族入門から読むことにしたのだった。